抜かれると思って痛快の念で息づまる程でしたが、S教諭のこの態度は、その痛快の念を打消してしまうほど大きなショックを私に与えました。その時こそは、S教諭に対してはかり知れぬ程の憎悪を感じました。私は顫《ふる》える身体を無理に押えつけて、じっと辛抱しながら、S教諭に対して復讐するのは、この時だと思いました。美貌を誇り、それを売り物として居る女優が一眼をくり抜かれることは彼女にとっては死よりもつらいにちがいない。若《も》し、私の点眼したアトロピンが直接の原因となったとしたならば、私は立派な復讐を遂げたことになる。と、こう考えて見ても私はどうもそれだけでは満足出来なかったのです。彼女に対してもっと/\深刻な復讐を遂げ、その上教諭に対しても思う存分復讐したいと思いました。それにはこの又とないチャンスを利用するに限ると私は考えたのであります。
 患者が眼球剔出ときいて如何《いか》にそれに反対したかは諸君の想像に任せます。然し、S教諭は捨てて置けば両眼を失うということ、巧みに義眼を嵌《は》めれば、普通の眼と殆ど見分けがつかぬことなどを懇々《こん/\》説諭《せつゆ》して、なおその言葉を証拠立てるために、義眼を入れた患者を数人、患者の前に連れて来て示したので、やっと患者は納得するに至りました。
 女子の眼球剔出の手術は、通常全身麻酔で行うことになって居ります。私は即ち、その麻酔を利用して、S教諭に対する復讐を遂げようと決心しました。御承知の通り、全身麻酔にはクロヽフォルムとエーテルの混合液が使用されますが、私はそれをクロヽフォルムだけにしたならば、ヒステリックな患者はことによると手術中に死ぬかも知れぬと思いました。助手の失敗は教諭の失敗でありますから、責任感の強いS教諭は、ことによると引責辞職をするか、或は自殺をも仕兼《しか》ねないだろうと考えたのです。諸君! 諸君は定めし「なるほど、痴人にふさわしい計画だな」と心の中で笑われることでしょう。然し何事もチャンスによってきまるのですから、これによって、意外に満足な結果を得ないとも限らぬと私は思いました。
 さて、患者が承諾をすると、私は時を移さず手術の準備を致しました。眼科の手術は外科の手術とちがって極めて簡単です。いつも教諭と助手と看護婦の三人で行われます。S教諭は腕の達者な人ですから、碌《ろく》に手も洗わないで手術をする癖です。私は先ず患者を手術台に仰向きに横《よこた》わらせ、側面に立って麻酔剤をかけました。無論、クロヽフォルムだけを用いました。マスクの上から大量に滴《た》らしますと、患者は間もなく深い麻酔に陥ったので、看護婦に命じて隣室の教諭を呼ばせ、その間に私は一方の眼をガーゼで蔽い手術を受ける方の眼をさらけ出して教諭を待ちました。
 やがてS教諭は患者の頭部の後ろに立って手術刀を握りました、いつも手術中には、私に向って必ず、例の独逸《ドイツ》語の罵言を浴せかけますが、その日は、私がクロヽフォルムの方に気を取られて居て、余計に愚図々々しましたので、一層はげしく罵りました。罵り乍らも教諭は鮮かに眼球を剔出して、手早く手術を終って去りました。くり抜かれて、ガーゼの上に置かれた眼は健眼と変りなく何となく私を睨んで居るようでしたから、一瞬間ぎょッと致しました。で、私はピンセットにはさみ、いち早く看護婦の差出した、固定液入りの瓶にポンと投じて持ち去らせ、それから繃帯にとりかゝりました。通常一眼を剔出しても、健眼に対する刺戟を避けるために、両眼を繃帯し、二日後にはじめて健眼をさらけ出すことになって居りますので、私は、患者の眼の前から後頭部にかけ房々とした黒髪を包んで、ぐる/\繃帯を致しました。それが済むと、まだ麻酔から覚めぬ患者を病室へ運び去らせて跡片附を致しましたが、私は予期した結果の起らなかったことに、非常な失望を感じました。諸君は私の計画がやっぱり痴人の計画に終ったと思われるでしょうが、その時私はまだ/\一縷の望を持って居たのです。というのは、彼女の残された健眼も、ことによると緑内障に冒されるかも知れぬと期待して居たからであります。
 果して、私の期待したことが起りました。患者は手術後、程なく無事に麻酔から覚めて、元気を恢復し、その日は別に変ったことはなかったですが、翌日から左眼[#「左眼」に傍点]に痛みを覚えると言い出したのであります。剔出した右の眼のあとが痛むのは当然ですが、左の眼の痛むのは緑内障が起りかけたのだろうと考えて、私は心の中で、うれしそうに、チャンスだ、チャンスだと叫びました。
 然し、S教諭に対する復讐は? 諸君、若し、左の眼も緑内障にかゝったならば、もう一度眼球剔出の手術があるべき筈です、私は其処に希望をつなぎました。何事もチャンスですよ、諸君!
 愈《いよい》よ三日目になっ
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小酒井 不木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング