なったのであります。
 諸君は御承知かも知れませんが、緑内障にかゝった眼は、外見上は健康な眼と区別することが出来ません。この病《やまい》は俗に「石そこひ」と申しまして、眼球の内圧の亢進によるのですから、眼球は硬くなりますが、眼底の検査をして、視神経が眼球を貫いて居る乳頭と称する部分が陥凹《かんおう》して居るのを見なければ、客観的に診断を下すことが出来ません。然し診断は比較的容易につきますけれど、内圧の亢進する原因はまだ明かにされて居らないのです。日本でも、西洋でも、むかしこの病は「不治」と見做《みな》され、天刑病の一種として医治の範囲外に置かれました。近頃では、初期の緑内障ならば、手術その他の方法で、ある程度まで治療することが出来ますが、重症ならば勿論失明の外はありません。ことに疼痛が甚だしいために、それを除くには眼球を剔出《てきしゅつ》すること、即ち俗な言葉でいえば眼球《めだま》をくり抜いて取ることが最上の方法とされて居ります。なお又、炎症性の緑内障ですと、片眼《へんがん》に起った緑内障は交換性眼炎と称して、間もなく健眼《けんがん》に移りますから、健眼を助けるための応急手段として、患眼《かんがん》の剔出を行うことになって居ります。従って、緑内障の手術には、眼球剔出法が、最も屡《しばし》ば応用されるものであります。
 さて、私は、外来診察所から廻されて来た件《くだん》の女患者に病室を与え、附添の看護婦を選定した後、視力検査を行い、次に眼底検査を行うために彼女を暗室に連れて行きました。暗室は文字通り、四方の壁を真黒に塗って蜘蛛の巣ほどの光線をも透さぬように作られた室《へや》ですから、馴れた私たちがはいっても息づまるように感じます。況《いわん》やヒステリックな女にとっては堪えられぬほどのいら/\した気持を起させただろうと思います。私は瓦斯《ガス》ランプに火を点じて検眼鏡を取り出し、患者と差向いで、その両眼を検査|致《いた》しましたところが、例の通り私の検査が至って手|遅《のろ》いので、彼女は三叉《さんさ》神経痛の発作も加わったと見え、猛烈に顔をしかめましたが、私はそれにも拘《かゝわ》らず泰然自若として検眼して居ましたから、遂に我慢がしきれなくなったと見えて、「まあ、随分のろいですこと」と、かん高い声で申しました。
 この一言は甚だしく私の胸にこたえました。そして、彼女の傲慢な態度を見て、これまで感じたことのないほど深い復讐の念に燃えました。前にも申しましたとおり、私の復讐は、いつも一定の時日を経て、チャンスを待って行われるのでしたが、その時ばかりは前例を破って、思わずも、傍《そば》に置かれてあった散瞳薬《さんどうやく》の瓶を取り上げ、患者の両眼に、二三滴ずつ、アトロピンを点じたのであります。通常眼底を検査するには、便宜をはかるために散瞳薬によって瞳孔を散大せしめることになって居りますが、アトロピンは眼球の内圧を高める性質があるので、これを緑内障にかゝった眼に点ずることは絶対に禁じられて居るのであります。然し、その時一つは、眼底が見にくゝていら/\したのと、今一つには患者の言葉がひどく胸にこたえたので、私は敢てその禁を犯しました。アトロピン点眼の後、更に私が彼女の眼に検眼鏡をかざしますと、彼女は又もや「そんなことで眼底がわかりますか」と、毒づきました。私は眼のくらむ程かっ[#「かっ」に傍点]と逆上しましたが「今に見ろ」と心の中で呟いて、何も言わずに検眼を終りました、視力検査の結果は、まがいもなく、緑内障の可なり進んだ時期のものでしたが、別に眼球剔出法を施さないでも、他の小手術でなおるだろうと思いましたので、そのことをS教諭に告げて置きました。
 ところが、私の予想は全くはずれたのです。その夜はちょうど私の当直番でしたが、夜半に看護婦があわたゞしく起しに来ましたので、駈けつけて見ると、彼女はベッドの上に、のた打ちまわって、悲鳴をあげ乍《なが》ら苦しんで居《い》ました。私は直ちに病気が重《おも》ったことを察しました。或《あるい》はアトロピンを点眼したのがその原因となったかも知れません。はっ[#「はっ」に傍点]と思うと同時に、心の底から痛快の念がむら/\と湧き出ました。取りあえず鎮痛剤としてモルヒネを注射して置きましたが、あくる日、S教諭が診察すると、右眼の視力は全々《ぜん/\》なくなってしまい、左の方もかすかな痛みがあって、視力に変りないけれど、至急に右眼を剔出しなければ両眼の明を失うと患者に宣告したのであります。そうしてその時S教諭は患者の目の前で、これ程の容体になるのを何故昨日告げなかったかと、例の如く、Stumpf《スツンプ》, Dumm《ドウン》 を繰返して私を責めました。
 S教諭が患眼剔出を宣告したとき、私は彼女が一眼をくり
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