し今、うれしいといったわねえ。然し、うれしいという気持になれない」私はぎくり[#「ぎくり」に傍点]としました。そうしていきなり彼女に接吻しました。
「あら、許して頂戴! わたしちっとも、なつかしいという気がしない」
 私は更に吃驚《びっくり》しました。
「あなた、済まない。笑おうと思っても笑えない。うれしがろうと思ってもうれしがれない。これでは生きて居ても何にもならない!」
 その時の私の絶望! 私は思わず、ベッドに顔を埋めました。
「あなた! 駄目! 早く人工心臓を取り去って頂戴。死ぬことも、生きかえることも、何の感じもない!」
 二年間の研究はこの一|言《ごん》で木っ葉微塵に打ち砕かれました。恐怖を除くことのみを考えた私たちは、人工心臓が快楽やその他の感情をも除くことに気がつかなかったのです。悔恨《かいこん》! 慚愧《ざんき》! 妻は今それさえも感じません。人工心臓は結局人工人生に過ぎなかったのです。
 パチッ! 私は思い切って、モーターをとどめるべくスイッチを捻《ね》じました。

 いや、とんだ長話をしましたねえ。私のこの苦い経験は或はランゲの説を実証したかもしれませんが、私はそれ以後、機械説なるものに慊《あきた》らぬ感じを懐《いだ》きました。機械説は結局人間の希望を打ち壊すものです。恐怖があり、病気があり、死ということがあればこそ、人間に生き甲斐があるのかも知れません。
 かくて私は妻の死と共に人工心臓の研究をふっつり思い切りました。然し、先刻御話し申しあげた肺臓の窒素固定作用だけは、機を見て研究を続けたいと思いますが、兎角《とかく》あせると事を仕損じますからゆるゆる取り掛るつもりです。
 いや、あなたが窒素固定法の発明者ハーバー博士の来朝することを話したものだから、つい、私一代の懺悔話をしました。結局、生理学者は、水銀の「人工心臓」を拵《こしら》えて楽しんで居る方が遥かに安心かも知れませんねえ、ははははは。



底本:「怪奇探偵小説名作選1 小酒井不木集 恋愛曲線」ちくま文庫、筑摩書房
   2002(平成14)年2月6日第1刷発行
初出:「大衆文芸」
   1926(大正15)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:宮城高志
2010年3月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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