九
人工心臓の準備が終った翌朝、妻の病は革《あらた》まりました。友人たちは駈《か》けつけて来ましたが、妻は主任教授と主治医たる友人との二人をとどめて人々を立ち去らせ、私が絶命するなり、良人《おっと》に人工心臓の実験をして貰おうと思うから、良人に法律上の迷惑がかからぬように保証してもらいたいと頼みました。主任教授の眼には涙の玉が光りました。
それから妻は二人にも室を退いて貰って、私に、人工心臓を見せてくれと申しました。私が手に取りあげて見せますと、妻はにっこりと笑いましたが、それと同時に咽喉《のど》が、一度に鳴って、静かに瞑目して行きました。
はっと我に返った私は、室外の人々に、妻が絶息したことを告げ、手術中誰も中へはいって来ないように頼み、速かに手術に取りかかりました。
胸の皮膚に刀《メス》を触れた時の感じ、それは今でも忘れることが出来ません。手早く胸廓を開いて、人工心臓を結びつけました。手術は彼女の死後九分に取りかかり十三分間で終りました。
血く染まった手でスイッチを捻ると、モーターはその特有な音をたてて廻りはじめました。一分、二分、三分、私は彼女の脈を検査しながら、その眼をみつめました。活栓は一分間に二百五十回の割で動きましたから、脈搏の数《すう》を数《かぞ》えることは出来ませんが、血液が無事に巡回して居ることは、はっきり感ぜられました。
五分! 彼女の唇がその色を恢復すると同時に、眼瞼《がんけん》がかすかにふるえました。私は思わず、うれしさの叫びをあげようとしました。犬と羊の実験をしたときも、最初にこの眼瞼の顫えを経験したからです。
七分! 彼女の両眼球が左右へ廻転し始めました。私は、張り裂る程の喜びを無理に押えて彼女を見つめました。
九分! 彼女はぱっちり眼《まなこ》を開いて空間をながめ、唇を動かしました。
十一分! 彼女の視線は私の顔に集中されました。
十三分! 彼女は「ああ」と太息《といき》をもらしました。私は思わず叫びました。
「房子! わかるか、生きかえったのだぞ!」然し彼女はにっこりともしませんでした。
「房子! 人工心臓は成功した。うれしいだろう?」
「うれしい」と彼女は機械的に声を出しました。
「うれしいか。僕もうれしい。お前は新らしい生命を得たのだ!」
「あら!」と彼女はやはりマスクのような顔をした儘申しました。「わた
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