の方の研究に取りかかりましたが、ここに、はからずも思わぬ障害が起ったのです。
七
「好事魔多し」とかいう言葉があるそうですが、実に何事も思うに任せません。第一の難関を突破して一週間ほど過ぎたある夜、私は突然|咯血《かっけつ》をしたのです。
人工心臓研究の第一段を終ったのは、生理学教室へはいってから約一年半の後でしたが、その半年ほど前から私は時々軽い|咳嗽《せき》をするようになりました。恐らくその時分に多少の発熱があったかも知れませんが、研究に夢中になって、少しも顧《かえりみ》る余裕がなく、身体の無理な使い方をしたのが祟《たた》ったのでしょう。とうとう咯血に見舞われて、一時研究を中止することを余儀なくされました。若気の至りとでも言いますか、悠々たる態度をもって研究することをせず、只管《ひたすら》にあせり続けたのが悪かったのです。今は幸いに健康を恢復しましたが、私はその以後、大きな仕事ほど却ってゆっくり研究を進めて行くべきであるということを悟りました。
さて、咯血をしたとき、主任教授は頻《しき》りに入院治療を勧めてくれましたが、私はどうしても研究室のそばを離れる気にならず、私たちの止宿の室をそのまま病室として、妻が看護婦になって介抱してくれました。最初は凡そ十グラムほど咯血しましたので、直ちにベッドの上に横わり、内科に勤務して居る友人を呼んで診《み》て貰いますと、とりあえず止血剤を注射し、絶対安静せよと忠告をしてくれましたから、私は仰向きになってじっ[#「じっ」に傍点]として居《お》りました。
ふと、夜半《よなか》に眼がさめると、胸に、はしかゆいような擽《くすぐっ》たいような感じがしました。はっと思うと、次の瞬間けたたましい咳嗽が起って、なお暖かい血は猛烈に口腔に跳ね上りました。咳嗽、又、咳嗽、妻はコップを持って来てくれましたが、見る見るうちに、コップは紅いもので一ぱいになりました。驚いた妻は洗面器を持って来て受けました。私は左を下にして横わったまま咯《は》きましたが、勢い余った血液は鼻腔の方からも突き出されて来て、顔の下半分はねばねばしたもので塗りつぶされました。胸は蜂の巣を突ついたような音を立てる、かと思うと、又、雷のようにごろごろ言いました。洗面器の半分ほどは、たちまちに充《みた》され、この儘《まま》全身の血液を咯《は》き尽すのではないかと
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