。然しよく考えて見るに、若し神様が、私たちの身体を御造りになったとしたらば、やれ筋肉説だの、やれ神経説だのと騒いで居ることは、神様の眼には、電気説を空想した私の眼に映じたよりも、もっと滑稽なものに映ずるかも知れません。いずれにしても私は、色々な学説を頭の中に詰め込むことの煩雑さに堪《た》えかねて、大学を卒業したならば、一日も早く人工心臓の発明を完成したいと思いました。

       四

 三年級になって臨床学科の講義を聴き、直接患者を取り扱うに及んで、私はつくづく現代医学の力無さを痛感すると同時に、私たちの学ぶ医学なるものは、畢竟学説の集積に過ぎぬのであって、実用とはよほどかけ離れて居るものだということを発見しました。学説が右なり左なりへはっきりと片がついて居れば、それに従って治療もはっきり行い得《う》る筈ですけれど、何分学説が論争の中途にあるのですから、治療も当然半端ならざるを得ません。数多い病気のうち、薬剤を以《もっ》て特効的に治療し得《う》るものは片手の指を屈し尽すに至らぬほどの少数で、その他は、ただ、いわば気休めに薬剤を与えて自然に治療するのを待つに過ぎません。そうして、いざ生命が危篤になると、どうです、どの病気にも御承知のとおりカンフル注射を行うことになって居ます。日本だけで一年に百何十万という人が死にますが、その大部分は、カンフルを御土産として、あの世に参ります。このカンフルは申すまでもなく強心剤即ち心臓の働きを強くさせる薬剤ですから、つまり医学の究極は心臓を強くさせることだということが出来る訳です。急性病にしろ、慢性病にしろ、若し心臓さえ変らぬ力で働いて居たならば、治る病気は治り、治らぬ病気は治らぬままに生命を存続することが出来ます。ペストやコレラのような恐ろしい病気も、つまりは最後に心臓が犯されて死ぬに過ぎませんから、医学者たるものは須《すべか》らく、ペストやコレラの病原菌|穿鑿《せんさく》に力をそそぐよりも心臓を鉄の如く強くすること、否、一歩進んで鋼鉄製の人工心臓の製作に工夫をこらすべきであります。さすれば各種の病気を一々研究して、文献を多くする必要は更にありません。人工心臓の発明をさえ完成したならば、如何《いか》なる病気も恐るるに足りません。私はパストールやコッホやエールリッヒなどの業績を思うごとに、彼等が人類に与えた恩恵に感謝すると同時に、
前へ 次へ
全24ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小酒井 不木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング