呆気《あっけ》にとられた小田刑事を残して、俊夫君は、その紙片をもって次の部屋へ行き、何やらしきりにやっておりましたが、やがて出てきて、小田刑事に渡した紙片の上には、「頭蓋骨」の絵が、赤い色の線で書かれてありました。
「今、ある薬品をかけてあぶりだしたら、こんな絵があらわれたのです。これについて何か心当たりがありませんか」
俊夫君が、こう言い終わらないうちに、小田刑事の顔色は変わりました。
「やっぱり、あいつらの仕業《しわざ》か」
と、小田刑事は吐きだすように言いました。
「え?」
と、俊夫君は、小田刑事の顔を、つよく見つめました。
「実はねえ、俊夫君」
と、小田刑事はいくぶん声をひくめました。
「まだ世間にはむろん知られていないが、この十日ばかり前に、上海《シャンハイ》に根城をもっているある誘拐団が東京へ入りこんだ形跡があるから、注意しろという内報が、警視庁へきたのだよ。その団体のマークがこの赤い線で書いた頭蓋骨で、彼らは内地の女を誘拐しては、不思議な方法で上海《シャンハイ》へ連れてゆくのだ。
その団体は主として内地の人間から成りたっているらしいが、支那人などをも手先に使い、のみならず、思いもよらぬところに連絡をつけて、実にたくみに犯罪を行っているらしい。この名刺が、川上糸子の死骸の上に置いてあったのを見ると、彼女はおそらく誘拐されるのを拒んで、そのために殺されたのかもしれん。いや、何にしても、えらい事件が起こったものだ」
俊夫君はじっと、その話を聞いておりましたが、何思ったかとつぜん尋ねました。
「川上糸子の死骸は今どこにありますか」
「君に現場を見せるつもりで、春日町一丁目の空家にそのまま置いてあるよ」
「誰か番をしておりますか」
「部下の刑事が二人番をしている」
「あなたが役所に引きあげられたのは何時頃でしたか」
「四時頃だったと思う」
「それから今まで、ずっと刑事さんたちが番をしているのですね?」
「そうだ」
「そりゃ、愚図愚図しておれません」
「なぜ?」
それには答えないで俊夫君は私に向かって言いました。
「兄さん、すぐ自動車を呼んでくれ。そうして出かける準備をしてくれ」
私は電話をかけてタクシーを呼びました。それから私たちは、例のごとく出発の用意をしました。
ほどなく自動車がきましたので、三人はそれに乗って、早朝の街を走り過ぎました。寒い風が街頭の木々を揺すっておりましたけれど、私は緊張のために、むしろ身体《からだ》の熱するのを覚えました。
誘拐団は何のために帝都一流の女優を殺したのであろうか。何のためにわざわざ警視庁へ電話をかけて知らせ、なお俊夫君にあのようなからかい[#「からかい」に傍点]の電話をかけたのであろうか。
これらの疑問を解こうと考えにかかると、頭の中もすこぶる熱してきました。が到底それは、私にはもちろん、俊夫君にとってもまだ解けない謎に違いありません。
俊夫君は小田さんに尋ねました。
「さっき、川上糸子は毒殺されたものらしいとおっしゃいましたが、たしかに毒殺の形跡がありましたか」
「ざっと調べたばかりだから分からぬが、別に血は流れていないし、また絞殺された様子もないから、毒殺だろうと思ったのさ」
「あの名刺には、僕の名と進呈という文字の他に、名刺の持ち主の名が書いてあったようにおっしゃいましたが、それを覚えておいでになりますか」
「さあ、それがさっきから、どうも思い出せないのだ。たしかに今まで聞いたことのない名で、はじめの一字は『山』だったと思う」
「山本|信義《のぶよし》というのではありませんか」
「あッ、そうだ。きっとそうだった。君はその男を知っているのか」
「知っているどころか、実は先達《せんだっ》て川上糸子が首飾りを盗まれたとき、僕は探偵を依頼されて、山本が持っていることを知り、山本の手から首飾りを取りかえしたのですよ。事はいわば内済《ないさい》になりましたが、そのために山本は職を失いました」
「すると、そのことをうらみに思って、その山本というのが、川上糸子を殺し、死骸を君に進呈すると書いたのだろうか」
「さあ、それはどうだかまだ分かりません」
「さっき君は、僕の尋ねる前に、すでに春日町で人殺しのあったことを知っていたようだが、それはどうして分かったのか」
「ああ、そうでしたねえ。それを話す約束でしたねえ」
そこで俊夫君は、深夜に男の声でからかい[#「からかい」に傍点]の電話のかかったこと、その電話は春日町二丁目の「近藤つね」という美容術師の家《うち》からであったこと、美容術師は、一人の女弟子とともに住んでいるが、覆面の盗賊に入られて麻酔剤を嗅がされ、人事不省《じんじふせい》に陥ったから、たぶん盗賊が電話をかけたのであろうということなどを順序正しく述べました。
「その電話をかけた男の声が、いま君の話した山本ではなかったかね?」
「さあ、山本の声をよく覚えていないし、それに電話の声は普通の声と変わるものだからはっきりしたことは分かりません」
こう言って俊夫君は考えこみました。
二
間もなく自動車は、目的地たる春日町一丁目の空家の前に止まりました。それは街から少し引き込んだところで、建ててからまだ一年はたつまいと思われる平家《ひらや》でありました。
小田刑事が先に立ち、私たちはそれに続いて屋内に入りました。雨戸がたった一枚あけてあるだけでしたから、中は薄暗かったけれど、でも何が起こっているかは、じゅうぶん分かりました。
そこにはまったく意外な光景《ありさま》があらわれていたのであります。
小田刑事が、死骸の番に残しておいた二人の刑事が、ともに猿轡《さるぐつわ》をはめられ、柱にしばりつけられていたのでして、私たちの予期した川上糸子の死骸は、そのあたりに見えなかったのであります。
小田刑事は、思わず「あッ」と叫んで、二人のそばにかけより、二人の縄を解き、猿轡《さるぐつわ》をはずしました。
「僕が想像したとおりだ。兄さん、川上糸子が果たして殺されたかどうかも疑わしいよ」
俊夫君は、私をふりかえってこう言いました。
自由になった二人の刑事は、申し訳がないというような顔つきをして立ちあがりました。
「どうしたというんだ。君たちは。いったい死骸はどうなった?」
と、小田刑事は尋ねました。
二人の刑事が代わる代わる語るところによると、小田刑事が二人を残して、空家を出てからおよそ十分ほど過ぎると、いきなり覆面の二人の男があらわれて、背後からそれぞれ刑事たちを襲い、何か異様なにおいを嗅がされたかと思うと、そのまま気を失い、正気がついて見ると、二人とも柱にしばられ、猿轡をはめられていたばかりでなく、女優の死骸がどこかへ運び去られたというのであります。
「どんな風采の人間だったか分からぬかね?」
と、小田刑事は、怒っても仕様がないと思ったのか、比較的やさしい声で、そのうちの一人に尋ねました。
「顔を包んで、黒い装束《しょうぞく》をしておりましたから、さっぱり分かりませんでした」
俊夫君は、畳のあげられてある板の上を熱心に捜索しはじめましたが、別に手掛かりになるものは落ちておりませんでした。
「Pのおじさん。川上糸子はどんな服装をしておりましたか」
「洋装で、毛皮の外套《がいとう》を着ていたよ」
「川上糸子だというたしかな証拠がありましたか」
「そりゃ、もう一目ですぐ分かった」
他の二人の刑事も、彼らの前に横たわっていたのは、たしかに川上糸子に違いないと言葉を添えた。
「それではこのお二人に、川上糸子の昨夜《ゆうべ》からの行動を探ってもらってくださいませんか」
小田刑事は、二人の刑事に意を含めて立ちさらせました。
「俊夫君、一体この事件をどう思う?」
やがて私たち三人になると、小田刑事は、こう尋ねました。
「どう思うって、まだ何とも分かりませんよ。事によると、川上糸子は、本当に死んだのではなく、仮死に陥っただけかもしれません。しかし、それは僕の想像にすぎません」
「これから君は、どういう風に捜索の歩をすすめてゆくのか」
「まず、美容術師の近藤つね方を訪ねようと思います」
「その間に、犯人たちは高飛びしやしないだろうか」
「大丈夫です。もし川上糸子が本当に死んでいたならば、死骸を捨てて逃げないとも限りませんが、仮死に陥ったものとすると、正気に復するのを待って連れて逃げるでしょうし、逃げるにはなるべく目立たぬ工夫をするでしょうから、けっしてその方の手配りを急ぐ必要はありません。それよりも美容術師を訪ねた方がきっと効果があると思います」
こう言って俊夫君は、私たち二人を促し、春日町二丁目に向かって進みました。
第三回
一
春日町一丁目の空家を出た三人――小田刑事と俊夫君と私――は、間もなく、二丁目の美容術師近藤つね方を訪ねました。
「近藤美容院」とガラスに金文字を浮かせたドアを開けて私たちを出迎えたのは、主人の近藤つね女史でありました。さすがに美容術師であるだけに、非常に美しい容貌で、まだ三十歳になるかならぬのように見えました。ただ、その頬に血の気の失せているのは昨夜《ゆうべ》の事件のためであると想像されました。
俊夫君が簡単に来意をつげると、女史はすぐ私たちを、綺麗な待合室へ案内してくれました。
それから、私たちは、あついお茶の御馳走になりました。俊夫君が午前三時十分頃に電話をかけたときに、まだ麻酔剤のために人事不省《じんじふせい》だった女弟子も、もうこの時には普通の人になって、お菓子などを運んで出ました。けれども私たちは、もとよりゆっくり腰を落ちつけているわけにはゆきません。で、俊夫君はすぐさま用件にかかって、ゆうべ盗賊の入った顛末を尋ねました。
近藤女史と女弟子とが交々《こもごも》語ったところは、電話で俊夫君が聞いたこと以上にこれという注意すべき点もありませんでした。何しろ恐ろしさが先に立って、しかもすぐ麻酔剤を嗅がされたために、盗賊が一人だったか二人だったかさえ記憶しないということでした。いわんや盗賊は覆面していたので、その人相などはさっぱり分からなかったのです。
「何か盗まれはしませんでしたか」
と、俊夫君は尋ねました。
「いいえ、別に何も盗まれはしなかったようでございます。あなたからお電話をいただいたので、方々を検《しら》べましたが、何も失っておりません。それどころか、盗賊は小さなガラス罎《びん》を落としてゆきました」
「え? ガラス罎?」
と、俊夫君は熱心に聞きかえしました。
近藤女史は女弟子に告げて、それを取りにやりました。やがて女弟子は一個の小さな緑色ガラスの罎《びん》をもってきて、俊夫君に渡しました。
俊夫君は、その罎をすかして見ました。中には一滴か二滴の液体が残っているだけでした。それから俊夫君は罎の表面に貼ってあるレッテルの文字を見ました。それは印刷したレッテルではなくて、西洋紙片に黒インキで、
[#天から4字下げ]Gelsemium
と書かれてありました。すると、それを見た俊夫君の顔には、例の満足の微笑がただよいました。
「これは、たしかに盗賊が落としていったものですか」
「はあ、うちでは色々の化粧水や薬品を使いますから、はじめは、うちの罎かと思いましたが、よく検《しら》べてみると違っております。多分、私たちのどちらかが抵抗したとき、覆面の曲者《くせもの》が落としたものと見えます。ちょうど、私たちの枕もとに転がっておりました」
この時、小田刑事は待ちかねたように、俊夫君に向かって尋ねました。
「その横文字は何という意味かね?」
「これですか、これはゲルセミウムという毒物です。ゲルセミウムという植物の根にある一種のアルカロイドで、アルコールによく溶けます。ストリヒニンと同じく、非常に苦い味を持っていまして、薬剤としては神経痛などに用いられますが、それよりもこの毒は一種の不思議な作用を持っているのです」
「不思議な作用とは?」
「僕は自分で経験したことはないですが、アメ
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