しも記憶して居なかった。モルヒネ……昏死! という考《かんがえ》が、後から後から湧いて来て、薬物学の書を開いて見たいと思い乍《なが》ら何だか恐しいような気がして、どうしても書架に近づくことが出来なかった。
女中が、突然、ドアを開けた。
「旦那様お身体をお拭きになりませぬか」
先刻、玄関に出迎えた女中が、「水を汲みましょうか」といったのに「ああ」と機械的に答えた彼は、すっかりそのことを忘れて居たのである。彼は、とてもゆるゆる身体など拭いて居られないと思った。
「もういいよ」
こういって彼は、又もや、門の方に眼をやった。蝉が頻《しき》りに鳴いて、遠くから機《はた》織る音が聞えて来た。
と、この時、一人の女が、手に何かを持って、あたふた門の中にかけ込んで来た。女の顔は土のように蒼ざめ、両眼は血走って居た。
彼はとうとう予期したカタストロフィーが来たと思った。女は間違いもなく患者の母だったからである。
彼はもう絶体絶命だと思った。窓から顔を出すなり、彼は女に尋ねた。
「ど、どうしたんです?」
女は苦しそうに息をはずませ乍ら玄関の前に立ち停った。
「先生、坊やが……」
「え?」
「
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