しも記憶して居なかった。モルヒネ……昏死! という考《かんがえ》が、後から後から湧いて来て、薬物学の書を開いて見たいと思い乍《なが》ら何だか恐しいような気がして、どうしても書架に近づくことが出来なかった。
女中が、突然、ドアを開けた。
「旦那様お身体をお拭きになりませぬか」
先刻、玄関に出迎えた女中が、「水を汲みましょうか」といったのに「ああ」と機械的に答えた彼は、すっかりそのことを忘れて居たのである。彼は、とてもゆるゆる身体など拭いて居られないと思った。
「もういいよ」
こういって彼は、又もや、門の方に眼をやった。蝉が頻《しき》りに鳴いて、遠くから機《はた》織る音が聞えて来た。
と、この時、一人の女が、手に何かを持って、あたふた門の中にかけ込んで来た。女の顔は土のように蒼ざめ、両眼は血走って居た。
彼はとうとう予期したカタストロフィーが来たと思った。女は間違いもなく患者の母だったからである。
彼はもう絶体絶命だと思った。窓から顔を出すなり、彼は女に尋ねた。
「ど、どうしたんです?」
女は苦しそうに息をはずませ乍ら玄関の前に立ち停った。
「先生、坊やが……」
「え?」
「坊やが……大変な……」
「何?」
「大変なことをしまして……」
「悪くなった?」
「いえ、先生が、お忘れになった、この、大切な御道具をこわしたので御座います」
見ると、女は、壊れた検温器と黒いケースとを握って居る。
彼はそれどころではない。
「坊やの容体はどうです!」
「お蔭さまで、あれから、すっかりもと通り元気になりまして、いたずらを始めて、先生の御道具まで、こわしまして本当にどうも……」
彼の眼からはボロボロと涙が二三滴こぼれた。呆気《あっけ》にとられた女はどうしてお詫《わび》してよいかに迷って、おずおずし乍ら彼の顔を見つめて居た。
涼しい風が、さっと室の中に流れ込んだ。
底本:「怪奇探偵小説名作選1 小酒井不木集 恋愛曲線」ちくま文庫、筑摩書房
2002(平成14)年2月6日第1刷発行
入力:川山隆
校正:宮城高志
2010年3月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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