さです。人々は一斉に腸管を見つめました。やがて腸は軽く動き出し、凡そ十回ぐらい伸縮を繰返したと思う時、どうした訳か吊してあった糸がぽっつり切れて、腸の上端が、ガラスの容器の縁《ふち》にひょい[#「ひょい」に傍点]と載りかかりました。丁度その方向が容疑者の真正面に当りましたので、恰《あだか》も一匹の白蛇が、彼に向って飛びかかるかのように見えたのです。
 あっと云う間もなく、彼は腸のはいったガラス器をめがけて突きかかりました。ガラスの割れる音がして、水があたりに飛び散りました。その時私は、腸が床の上に見つからなかったので、何処《どこ》へ行ったかと思って見まわすと、彼の首筋の後ろの襟《えり》の間に、とぐろを巻いて載って居ました。男は悲鳴を発し両手を後ろの方にあげて取り除こうとしましたが、つかみ方が間ちがったので、丁度腸をもって首を巻こうとするような動作を行いました。
「ウーン」と腹の中から搾り出すような声を出したかと思うと、どたりとたおれて、後頭部で腸管を圧し摧《くだ》き、凡そ二時間あまりは、息を吹き返しませんでした。無論後に彼は犯人であることを自白しましたが、彼がたおれてから間もなく、口から血の泡を吹き出して、それが老婆の腸の上に流れかかった有様にはさすがの司法官たちも顔をそむけました。
 然し私は、真犯人がこのくらい苦しむのは当然のことだと思いました。出来るならば私はもっともっとはげしいショックを与えて犯人を苦しませてやりたいと思いました。むかしの拷問は一種の刑罰法と見做《みな》すべきものでして、犯人を苦しませるには誠によい方法ですが(尤も主として肉体的の苦しみを与えるだけですから物足りませんけれど)犯人でないもの迄が時として同じように苦しみますから、それは拷問の最大欠点です。バーンス探偵の「サード・デグリー」は精神的拷問ですから、頗《すこぶ》る興味がありますが、これは主として訊問によるのでして、止むを得ず所謂《いわゆる》鎌をかけねばならず、それによって幾分か、無辜の人をも苦しめる欠点があります。然るに私の考案した「腸管拷問法」は、犯人でないものには何の苦痛も与えません。始めから終り迄沈黙の裡に事を行うのですから、人体解剖を見馴れぬ人には、多少の刺戟を与えるかも知れませんが、多くの場合、十中八九まで真犯人らしいと思われる者に対して行われるのですから、精神的拷問法として
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