けれど、けれど。
 私は、不幸にも、その何物であるかを見てしまったのです。それは或《あるい》は私の錯覚であったかも知れません。いえ、錯覚であらせたいと今でも思って居ります。然《しか》し、兎《と》に角《かく》、その時、私の眼に映じましたのは、小さい乍《なが》らも人間の形を具えた三ヶ月ほどの胎児でありました。私はぞっと致しました。急にあたりがまっ暗《くら》になって、今にもたおれるかと思いましたが、その時、先生が、この世ならぬ声で、主席助手の方に向って言われた御言葉ではっと我にかえりました。
「もう、手術はすんだ。後始末をしてくれたまえ」
 こういわれたかと思うと、先生は血まみれの手に、その疑問の組織をかたく握ったまま、私たちを残して、さっさと出て行ってしまわれました。子宮剔出の手術は? ? ?[#二つ目、三つ目の「?」は太字] 講習生の方々は、催眠術にでもかけられたようにぼんやりした顔をして見えました。
 暫《しば》らくすると、患者の子宮から、はげしい出血がありました。主席助手の方は、極めて落ついた性質でしたから、応急の手当を施されましたが、どうしても血が止まりませんので、私に、T先生を呼んでこいと仰《おっ》しゃいました。私は、先刻からの心の打撃に、ふらふらして居た矢先ですからまるで夢中になって先生の御室にかけつけましたが、T先生は御いでになりません。で、産婦人科教室に属するすべての室を、一つ残らず捜して行き、最後に、建物のつき当りにある図書室に行きますと、T先生は手に血のついたまま、机によりかかって、ある書物を見つめておいでになりましたが、私の跫音《あしおと》をきくなり、その頭をむっくり上げて、私の方を向いてニッと御笑いになりました。
 ああ、その時のT先生の御顔!
 先生の口許にはべったり血がついて居りましたが、そればかりでなく先生の歯齦《はぐき》と歯とは真紅《まっか》に染まって、ちょうど絵にかかれた鬼の口をまのあたりに見るようで御座いました。はっと思うと気が遠くなって、私は図書室の入口にたおれてしまったのです……
 ここでC子さんは、暫らく話を中絶させました。私たちは固唾《かたづ》を呑んで、その続きを待ち構えました。
「私の御話というのはこれだけで御座います。その患者はその夜、衰弱のため死亡致しました。先生はそれから長い間精神科の病室にはいって居られましたが、先年インフルエンザの流行《はや》った時、肺炎にかかって寂しく死んで行かれました。
 で、最後に残る問題は、T先生が患者の腹から胎児を御取り出しになったことも、T先生の口の中が真紅《まっか》であったことも、果して私の錯覚であったかどうかということです。然《しか》したとい先生の御取り出しになったのが、胎児でなかったとしても、T先生が誤診なさったことは事実でありますしなお又、先生が、その疑問の組織のやり場に困って、最も安全な隠し場所として、御自分の胃袋を御選びになったことも、やはりたしかであると思って居るので御座います。
 このことがありましてから、私は看護婦という職業に厭気《いやけ》がさして、現在の職業に移ったので御座います……」
[#地から1字上げ](『新青年』一九二五年十月)



底本:「現代怪奇小説集 中島河太郎・紀田順一郎編」立風書房
   1988(昭和63)年7月10日第1刷発行
初出:「新青年」
   1925(大正14)年10月号
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:藤真新一
校正:柳沢成雄
2002年10月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小酒井 不木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング