ろがそのT先生が、どうしたことか、まあ、いわば、悪魔にでも憑《つ》かれなさったのでしょう、たった一度だけ、世にも恐ろしい誤診をなさったので御座います。それがため、先生は遂にその身を亡ぼしてしまわれ、私も看護婦という職業を捨てたので御座います。
それはある夏のことでした。毎年、夏期には、教室で、産婦人科学の講習会が開かれますが、その年も凡《およ》そ二十五六人の聴講生が御座いました。聴講生と言いましても、みな、市内や近在に開業して居られる方ばかりで、どなたも相当な経験を積んで見えますから、T先生も殊更《ことさら》に注意をせられて、手術の時など、私たちの準備を厳重に監督なさいました。
ある日、T先生は、子宮繊維腫《しきゅうせんいしゅ》の患者に、子宮|剔出《てきしゅつ》手術を施して講習生に示されることになりました。その患者は二十五歳の未婚の婦人でしたが三ヶ月ほど前から月のものがとまり、段々衰弱して来たので、先生の診察を受けたところ、子宮の内壁に繊維腫が出来て居るから、子宮を全部剔出しなければならないとの事で、患者も覚悟をきめて、その大手術を受けることになりました。
御承知でも御座いましょうが、子宮を剔出するには腹部から致しますのと、局部から致しますのと二通りの方法が御座います。T先生は、講習生に示す関係上、後の方法を御選びになりましたので私どもはその準備を致しました。手術室は、中央に手術台が置かれ、その手術台のまわりに凡《およ》そ一間半ほど隔てて、生徒たちの見学する台が、手術を見|易《やす》くするために、ちょうど、昔のローマの劇場のように、一段々々後ろへ高くなって備えつけられてあります。で、二十数人の講習生は其処《そこ》へ半円形に陣取って、先生の臨床講義の始まるのを待って居りました。
最初に先生は、当の患者を連れて来て、一通りその病歴を御話しになり、子宮繊維腫と診断なさった理由を、いつもの通りの、歯切れのよい、流暢《りゅうちょう》な言葉で御述べになりました。凡そ半時間ほど説明をなさって、患者を別室に退かせになりました。即ち、その別室で、患者に麻酔剤を与え、患者が十分麻酔した頃に、手術室に運んで、手術を受けさせるという順序で御座います。
やがて患者は手術室に運ばれて来ました。患者が手術台に乗りますと、私は大へん忙《せ》わしくなるので御座います。先生も助手の方々も、白いキャップを御かぶりになり、口にも白いマスクをかけて手術に取りかかられるのが例で御座います。先ず、助手の方々によって、手術局部の厳重な消毒が行われますと、愈々《いよいよ》先生は手術に取りかかるために、特別な手術道具で、子宮を出来るだけ手前へ引き出しになりまして、順序として、指で丁寧に患部を触れて御覧になりました。
もとより、その間も先生は、聴講生に向って、熱心に説明して居られました。私にはよくわかりませんでしたが、子宮繊維腫の出来たときには、子宮は林檎《りんご》のようにかたくなるのが特徴であるということを繰返し説明なさったようでした。
ところが、暫《しばら》く触診をなさっておいでになりますと、先生の御言葉が段々乱れてまいりまして遂には、ぱたりと口を噤《つぐ》んでしまわれました。そして、ちょうど顕微鏡を御のぞきになるように、眼を近づけて、さらけ出されたものを、触診しながら、見つめて居られました。と、見る見るうちに先生の御顔に疑惑の色がただよい、その額にはオリーヴ油のような汗の玉が、ぎっしり並び始めました。恐らく先生はその時、夏の晩方、石だと思って掴《つか》んだのが、蟇《がま》であったときのような感覚をされたことだろうと思います。と申しますのは、患者の子宮は先生の予期に反して、先生が指で御つまみになると、空気の抜けかけたゴム鞠《まり》のようにくぼみましたからです。講習生の人々は、何事が起きたのかと、ちょうど、軍鶏《しゃも》が自分の卵ほどの蝸牛《かたつむり》を投げ与えられた時のように、首をのばし傾《かし》げて、息を凝らして見つめました。
御承知の通り、手術室には、塵埃《ほこり》は至って少ないのですが、その時には、一つ一つの塵埃《ほこり》が、石床《いしゆか》の上に落ちる音が聞えるかと思われるほど、静かになりました。やがて先生の手は少しく顫《ふる》えかけました。すると、先生は何事かを決心されたかのように、でも、何事も仰《おっ》しゃらずに、つと、子宮の中へ指を入れて、血のついた白みがかった塊《かたまり》をつかみ出されました。が、それは、ほんの一瞬間のことで、先生はその塊《かたまり》を右の掌《て》の中へしっかり握りこんでしまわれました。講習生の方々は勿論、恐らく助手の方々も、それが何であったかは御承知なく、やはり、子宮の中に出来た病的の腫物だと思って居られたらしいのです。
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