ません、どうぞどうぞ、生命をお助けくださいませ」
「ふ、ふ、ふ」
 和尚は悪魔の笑いを笑った。その時、暴風雨は一層つよく本堂をゆすぶった。
「これ、この期《ご》になって、お前がいくら、なんといっても、わしはもう容赦《ようしゃ》しない。さあ、覚悟をせい!」
 こう言ったかと思うと、和尚は腰のあたりに手をやって、ぴかりとするものを取り出した。
「わッ、和尚さま、後生です、どうかその刃物だけは、どうか、御免なされてくださいませ! わたしは厭です、殺されては困ります」
 この言葉をきくなり、和尚はふり上げた腕をそのまま、静かに下ろした。
「お前はそれほど生命がほしいのか」
「はい」
 法信は手を合わせて和尚を拝んだ。
「それでは、お前の生命は助けてやろう。その代わり、わしの言うことをなんでもきくか」
「はい、どんなことでもします」
「きっとだな?」
「はい」
「そうならわしの人殺しを手伝ってくれるか」
「え?」
「お前を助ければ、その代わりの人を殺さにゃならん。その手伝いをお前はするか」
「そ、そんな恐ろしいこと」
「できぬというのか」
「でも」
「それならば、いさぎよく殺されるか」
「ああ、和尚さま」
「どうだ」
「ど、どんなことでも致します」
「手伝ってくれるか」
「は、はい」
「よし、それではこれからすぐに取りかかる」
「え?」
「これから人殺しをするのだ」
「どこで……」
「ここで」
「誰を殺すのですか」
 和尚は返答する代わりに、殺気に満ちた顔をして、左手で、阿弥陀如来の方を指した。
「それではあの阿弥陀様を?」
「そうではない。あの尊像の後ろには、今、この暴風雨に乗じて、この寺にしのび入った賽銭《さいせん》泥棒がかくれているのだ。それをお前の身代わりにするのだ。さあ来い」
 和尚は立ち上がった。が、法信が立ち上がらぬ前に、そこに異様な光景があらわれた。
 阿弥陀如来の後ろから、巨大な鼠《ねずみ》のような真っ黒な怪物が、さッと飛び出して、あたりのものを蹴散らかし、一目散《いちもくさん》に逃げ出して行った。法信が、それを覆面の泥棒だと知るには幾秒かの時間を要した。
「やッ、和尚さま!」
 不思議にもその時恐怖を忘れた彼が、こう叫んで、泥棒のあとから駈《か》け出そうとすると、和尚はぎゅッと彼の腕をつかみ今までとは似ても似つかぬやさしい顔をして言った。
「捨てておけ。逃げたものは逃がしておけ。だが、法信、勘忍《かんにん》してくれよ。今のわしの話した蝋燭の一件は、あれはわしがとっさの間にこしらえた話だよ。さっき、わしは阿弥陀様の後ろに、ちらッと動くものを見たので、さては、泥棒がこの暴風雨に乗じて賽銭を盗みに来たのだと知ったが、うっかりわめいては、先方がどんなことをするかも知れぬと思ったから、これは策略で追い散らすより外はないと考えたのだよ。刀でもふりまわされた日にゃ、二人とも殺されてしまうかもしれないからなあ。でも、幸いに、泥棒もわしの話を本当だと思って逃げて行った。なに、この蝋燭は普通のものだよ。良順は病気で死んだに間違いない。実は今夜わしは雨月物語を読んでいたのだ。それから思いついたのだ、お前をびっくりさせたあの話を」
 こう言って右手にもった光るものを差し出し、さらに続けた。
「お前が刃物だといったのは、この扇子《せんす》だよ。恐ろしい時には、物が間違って見える。きっとあの泥棒もこれを刃物だと思ったにちがいない……」
 暴風雨はいぜんとして狂いたけった。



底本:「怪奇探偵小説集1」ハルキ文庫、角川春樹事務所
   1998(平成10)年5月18日第1刷発行
底本の親本:「怪奇探偵小説集」双葉社
   1976(昭和51)年2月発行
入力:大野晋
校正:しず
2000年11月7日公開
2005年12月11日修正
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