血の盃
小酒井不木

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)慄《おのの》く

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)因果|噺《ばなし》

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(例)[#7字下げ]一[#「一」は中見出し]
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[#7字下げ]一[#「一」は中見出し]

 因果応報は仏教の根本をなす思想であって、私たち日本人も、伝統的にこの因果応報の観念に支配され、悪いことをすれば、必ずそれに対するむくい[#「むくい」に傍点]が来はしないかと、内心ひそかに恐れ慄《おのの》くのが常である。そうした恐怖が一旦人の心に蟠《わだかま》ると、何か悪い出来事が起るまでは、その恐怖心が漸次《ぜんじ》に膨脹して行って、遂にその恐怖心そのものが、怖ろしい出来事を導くに至るものである。他人を殺して後、怖ろしい祟《たたり》を受けるというような例は古来沢山あったが、いずれも良心の苛責によって生じた恐怖心が、その人を導いて、その祟を招くようにしたものといっても敢《あえ》て差支ないと思う。
 尤《もっと》も、かような祟は多くは偶然の出来事のように見えるものである。だから、天罰とか神罰とか言われるのであるが、ポアンカレーの言うように、偶然というものは、実は原因を見つけることの出来ぬ程複雑な「必然」と見做《みな》すのが至当であって、怪談や因果|噺《ばなし》の中にあらわれる偶然を、私はむしろ、この「複雑な必然」として解釈したいと思うのである。これから記述しようとする物語も、やはり同様に解釈さるべき性質のものであろうと思う。
 これは私の郷里なる愛知県××郡△△村に起った事件であるが、明治三十八年のことで、村から出征《しゅっせい》した軍人の大半が戦死し、人々の神経が極度に緊張して居た時分であるから、強く村人の心を揺り動かし、郷里の人々は、いまだに戦慄なしで話すことの出来ぬくらい深い印象を与えられた。
 話は村の素封家《そほうか》の一人息子と、貧乏な綿打屋《わたうちや》の小町娘との恋物語に始まる。男は木村良雄といって、当時東京の某私立大学に在学中、女は荒川あさ子といって、当時二十歳の鄙《ひな》には稀に見る美人であった。良雄とあさ子とは所謂《いわゆる》幼な馴染であって、二人の家は、鎮守の社《やしろ》の森を隔てて居るだけであったから、二人はよく、神社の境内
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