愚人の毒
小酒井不木
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)訊問室《じんもんしつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)医学部教授|片田《かただ》博士
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)静めて[#「静めて」は底本では「靜めて」]
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1
ここは××署の訊問室《じんもんしつ》である。
生ぬるい風が思い出したように、街路の塵埃《ほこり》を運び込むほかには、開け放たれた窓の効能の少しもあらわれぬ真夏の午後である。いまにも、柱時計が止まりはしないかと思われる暑さをものともせず、三人の洋服を着た紳士が一つの机の片側に並んで、ときどき扇を使いながら、やがて入ってくるはずの人を待っていた。
向かっていちばん左に陣取った三人のうちいちばん若いのが津村《つむら》検事で、額が広く目が鋭く髭《ひげ》がない。中央の白髪交じりの頭が藤井《ふじい》署長、署長の右に禿《は》げた頭を金縁眼鏡と頬髯《ほおひげ》とで締め括《くく》ってゆったりと腰かけているのが、法医学者として名高いT大学医学部教授|片田《かただ》博士である。職務とは言いながら、片肌脱ぎたいくらいな暑さを我慢して滲《にじ》み出る汗をハンカチに吸いとらせている姿を見たならばだれでも冗談でなしに、お役目ご苦労と言いたくなる。
三人はいま、ある事件の捜査のために、有力な証人として召喚した人の来るのを待っているのである。厳密に言えば、その事件の捜査の首脳者である津村検事は、召喚した証人の訊問に立ち会ってもらうために、藤井署長と片田博士に列席してもらったのである。その証人は検事にとってはよほど重大な人であると見え、彼の顔面の筋肉がすこぶる緊張して見えた。ときどき頬のあたりがぴくりぴくりと波打つのも、おそらく気温上昇のためばかりではないであろう。訊問ということを一つの芸術と心得ている津村検事は、ちょうど芸術家が、その制作に着手するときのような昂奮《こうふん》を感じているらしいのである。これに反して、藤井署長は年齢のせいか、あるいはまた年齢と正比例をなす経験のせいか、いっこう昂奮した様子も見えず、ただその白い官服のみがいやにきらきらとしているだけである。まして、科学者である片田博士のでっぷりした顔には、いつもは愛嬌《あいきょう》が漲《みなぎ》っているに拘《かか》わらず、かような場所では底知れぬといってもよいような、沈着の不気味さが漂っているのであった。
柱時計が二時を報ずると、背広の夏服を着た青年紳士が一人の刑事に案内されて入ってきた。右の手に黒革の折鞄《おりかばん》、俗にいわゆる往診鞄を携えているのは、言わずと知れたお医者さんである。人間の弱点を取り扱う商売であるだけに、探偵小説の中にまで“さん”の字をつけて呼ばれるのである。が、この人すこぶる現代的で、かような場所に馴《な》れているのか、往診鞄を投げるようにして机の下に置き、いたって軽々しい態度で三人に挨拶《あいさつ》をしたところを見ると、もう“さん”の字をつけることはやめにしたほうがよかろう。
「山本《やまもと》さん、さあ、そちらへおかけください」
と、検事はいつの間にか昂奮を静めて[#「静めて」は底本では「靜めて」]、にこにこしながら医師に向かって言った。
「この暑いのにご出頭を願ったのは申すまでもなく、奥田《おくだ》さんの事件について、あなたが生前故人を診察なさった関係上、二、三お訊《たず》ねしたいことがあるからです。この事件は意外に複雑しているようですから、死体の解剖をしてくださった片田博士と、なお、捜査本部の藤井署長にも、こうしてお立ち会いを願いました」
こう言って津村検事は、相手の顔をぎろりと眺めた。この“ぎろり”は津村検事に特有なもので、かつてこの“ぎろり”のために、ある博徒の親分がその犯罪を何もかも白状してしまったといわれているほどの曰《いわ》くつきのものである。彼はのちに、おらアあの目が怖かったんだよ、と乾分《こぶん》に向かって懺悔《ざんげ》したそうである。しかし、この“ぎろり”も、山本医師に対しては少しの効果もなかったと見え、
「何でもお答えします」
という、いたって軽快な返答を得ただけであった。
その時、給仕が冷たいお茶をコップに運んできたので、検事は対座している山本医師に勧め、自分も一口ぐっと飲んで、さらに言葉を続けた。
「まず順序として、簡単にこの事件の顛末《てんまつ》を申し上げます。
S区R町十三番地居住の奥田とめという本年五十五歳の未亡人が、去る七月二十三日に突然不思議な病気に罹《かか》りました。午前一時ごろ、急に身震いするような悪寒が始まったかと思うと、高熱を発すると同時に、はげしい嘔吐《おうと》を催しました。まるで食
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