ないうちは死んでも死に切れません…………」
 松島氏は黙って点頭《うなず》いた。
「あなたにはもう犯人の見当がつきましたか?」
 松島氏は軽く頭を横にふった。
「いや、きっと、見当がついている筈です」と、総監は目を輝かせた。室内は静まり返って、暖炉の上に置かれた金盥《かなだらい》の水が軽く音を立てて湯気を発散していた。
「いえ、全く見当がつきません」
「しかし、あなたのような鋭い頭脳《あたま》の人が、今日まで手を束《つか》ねて見ている筈はありません」
「ところが、私は、この事件を引受けた当初からとても犯人逮捕はむずかしかろうと思いました」
「すると、犯人の目星がついていても、犯人の逮捕だけが出来ぬというのですか?」
「犯人の目星さえつかぬのです」
 総監は、湿《うるお》った眼をもって暫らく松島氏の顔をながめた。
「あなたは隠しております」と、総監は声を搾《しぼ》り出すようにして言った。
「決して隠してはおりません」
 総監は暫らくの間苦しい呼吸を続けた。雪がガラス窓を打つ音が聞え出した。
「でも、あなたはこの事件に大きな手ぬかりがあると言ったではありませんか」と、総監は穴のあく程松島氏を見つめて言った。
 松島氏はにこりと笑った。
「それはそう言いました」
「それに犯人もたった一つ手ぬかりをしていると言われたではありませんか?」
「そう申しました」
「それですよ。わたしはその言葉からあなたが、犯人の目星をつけられたに違いないと思いました。わたしはその言葉を色々と考えて、どこに事件の手ぬかりがあるか、又犯人がどんな手ぬかりをしたか見つけたいと思い、部下を督励して大いに研究させたのですが、どうしてもわかりません。外相暗殺者を逮捕せねばならぬ責任上、わたしは、あなたから、その言葉の意味が聞きたいのです。その言葉をきかぬうちは死んでも死に切れないのです」
 平素、冷静そのものといわれた総監が、病気のためとはいえ、かほどまでに気の弱くなるものかと、松島氏は不審に思うくらいであった。責任観念の強い人とはきいていたが、自分の発した言葉の意味をきかぬうちは死んでも死に切れぬという位、事件のことを心配しているかと思うと、世間ではとかくの評判のある総監に対して、松島氏は好意と同情を持たざるを得なかった。前に述べたように、松島氏は、あの二つの言葉の意味を何人にも説明しないつもりであったが
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