もしれない。そう思うと、私は藍色の皮膚をもち、鬼のような顔をした赤ん坊を想像して、全身の神経が痺れるように感じました。
 私は何と答えてよいかに迷いました。前にも申しましたとおり、又、夫人自身の言葉からも察せられるごとく、夫人はその操行の点に兎角の非難のあった人であります。ですから良人が他に女をこしらえたことを、これほどまでに怨むのは、少しエゴイスチック過ぎはしないかと思いました。然し、申すまでもなく、人間の感情は、数理的に判断することが出来ません。そうして、また医師としては、そういう心は須《すべか》らく撤回してしまいなさいと、立ち入って忠告することも出来かねます。又たとえ、忠告したところが、すなおにきいてもらえる筈がありません。けれども、少し冷静になって考えて見ますと、あの北斎の藍摺の鬼の印象が、夫人の希望どおりに赤ん坊にあらわれるということは、先ず先ず無いといって差支えあるまいから、患者がこれほどに分娩を希望するならば、よろしく、患者をして無事にお産をせしめるように力を尽すべきであろうと私は考えたのであります。
「先生、お願いです。どうぞ、先生のお力で無事にこの子を産ませて下さい」と、夫人は泣きやんでから、痩せた両手を合して、私を拝むような挙動をしました。私は、あわててそれを制し、
「出来るだけのことを致しましょう。どうか気を静めて下さい。あなたのお身体に障ると、自然お子さんの生命にも影響しますから」と、答えたのであります。
 夫人に出来るだけ安心を与えて、その日は帰りました。すると、その翌々日の午前七時頃電話がかかりまして、夫人に陣痛様の痛みが始まったからすぐ来て下さいという通知を受けました。分娩の時期がかくの如く早まったことは、夫人の身体が極度に衰弱したためであろうと想像し、私は何となく暗い気持になって、先方へ駈けつけますと御主人のT氏が出迎えてくれました。
「Wさん、今回は家内が大へんお世話になりまして、有難う御座います。家内は御承知のとおりの、ひどいヒステリーでして、私を病室の中へ入れることを断然拒んで、とても手がつけられません。これまで診察を受けて居た内科のDさんさえ、今日は寄せつけようとしません。どうしてもあなたでなくてはならぬそうです。Dさんのお話では、病気が急に進んだから生命が非常に危険であろうとの事です。どうかまあ、何分よろしくお願い致します」
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