、私は頸にはげしい痛みを感じて、がばと跳ね起きましたが、そのまま再び気が遠くなって、やっと、気がついて見ると、看護婦に附添われて、白いベッドの上に横《よこた》わって居《お》りました。
あとで、事情をきいて見ると、その夜、彼女は剃刀で私の咽喉《のど》をきり、然る後自分の頸動脈をきって自殺を遂げたそうです。その左の手には私が書いて与えた刑法の条文をかたく握って居たそうですが、最初彼女はそれを読めなかったので、私が寝ついてから、楼主《ろうしゅ》に読んでもらって、はじめて条文の意味を知ったらしいのです。そして、それと同時に、両親を殺した犯人を、ほぼ察したらしく、それがわかると自分の身の上が恐しくなり、到底私に愛されることはむずかしいと思って無理心中をする気になったらしいのです」
K博士はここで一息ついた。
「もう大抵《たいてい》御わかりになったでしょう。つまり、私はこう推定したんです。彼女の父は、妊娠中の妻即ち彼女の母に殺され彼女の母は彼女を生んでから、絞刑吏に殺されたんだと……彼女のこの悲しい遺伝的運命が私をして、刑法学者たらしめる動機となりました。というのは……」
K博士は傍《かたわら》の机の抽斗《ひきだし》から皺くちゃになった紙片を取り出した。
「これを御覧なさい。これが、彼女の手に握られて居た、恐しい刑法の条文です」
私は、手早く受取って、消えかかった鉛筆の文字を読んだ。
「死刑ノ宣告ヲ受タル婦女懐胎ナルトキハ其《その》執行ヲ停《とど》メ分娩後一百日ヲ経《ふ》ルニアラザレバ刑ヲ行ズ」
底本:「怪奇探偵小説名作選1 小酒井不木集 恋愛曲線」ちくま文庫、筑摩書房
2002(平成14)年2月6日第1刷発行
初出:「新青年」博文館
1925(大正14)年9月号
入力:川山隆
校正:宮城高志
2010年3月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小酒井 不木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング