みを忘れました。
 すると又、その翌日も翌々日も、同じ時刻にだんだんはげしく右の眼が痛み出し、モルヒネ注射の数も段々殖えて行きましたが、とうとう七日目の晩、いや奴の初七日の晩といった方がよいかも知れません。右の眼が痛みと共に急に見えなくなって、つぶれてしまいました。そうしたら、その翌日からは、例の時刻が来ても、右の眼に痛みは起りませんでした。旦那、恋敵の血というやつはよっぽど恐しいものですねえ。
 こう申すと、旦那は、どうして私が御用にならなかったかを不審にお思いになるでしょう。旦那、兇状《きょうじょう》持ちが、身をかくすに一番よい所は病院ですよ。よく、大泥棒などは、小さな罪を白状して、監獄へ入れてもらい、人殺しの罪をまぬがれるという話ですが、私は、人殺しをしたら、病院へ駈けこむに限ると思うのです。然《しか》し、大きな病院ではいけません。小さな病院でなくては。又、金をうんと持って居なくてはいけません。すると、むこうでは金|故《ゆえ》に、大切にしてかくまってくれます。警察でもまさか病人が人殺しをすまいと思いますから、調べにも来ませんよ。なに、入院した日附なんざあこちらの言いなり次第にごまかしてくれます。私は勿論《もちろん》変名で入院しました。兎《と》に角《かく》[#「兎《と》に角《かく》」は底本では「免《と》に角《かく》」]、警察へは引張られずにすみ、事件は、それ何とかいいますねえ、そうそう「迷宮入り」ですか、まったく、有耶無耶《うやむや》にすんでしまいましたよ。
 ところがです、法律上の罰は、みごとに免《まぬか》れましたけれど、恋敵の血の罰が、なおもはげしく、私にせめかかってまいりました。
 右の眼がつぶれて、翌日から痛みは去りましたが、さあこんどは、例の時刻が来ると、モルヒネの注射をして貰わねば、身体中がむしゃむしゃして来て、とてもこらえられないようになったんです。それも普通のモルヒネ中毒とはちがって、モルヒネが身体の中へはいって行くときの痛みが恋しくて恋しくてならぬようになったんです。旦那、旦那は、モルヒネが皮膚の中に沁みこんで行くときの、あの涎《よだれ》の垂れるような、気持のよい痛みを御経験になったことがありますか。あれですよ、あの痛みが恋しくなったんです。で、毎日、例の時刻にモルヒネを注射してもらいましたが、一二週間経つと、腕や背中のどこに注射してもらっても、その恋しい痛みを覚えなくなったんです。さあ大変私は身体中のどこが痛いかと、方々捜しまわった結果、でも、唇のまわりや、足の裏を捜しあてて痛みを味って来ましたが、それも二三日注射が続くと、もう、感じがなくなってしまいました。
 とうとう、しまいには自ら注射器をとって、御無礼な話ですが、恥かしい部分の皮下へ注射したんです。さすがにこの部分の皮膚は痛みが強くて、何ともいえぬ愉快を感じましたが、それも然し四五日以上は続きませんでした。
 もう痛いところは何処《どこ》にもなくなってしまいました。旦那、私が、何とかして痛いところを見つけ出そうと焦燥《あせ》った時の心持を御察し下さい。例の時刻が近づいて来ると、私は気ちがいのようにもだえましたが、悶《もだ》えたあげく、たった一つだけ残って居る、一ばん痛いところを見つけたんです旦那、それを何処だと思います?
 眼ですよ。眼ですよ。眼にものがはいった時の痛みは旦那もよく御承知でしょう。つぶれた眼には痛みはないですが、あいて居る眼は、私の欲望を思う存分|叶《かな》えてくれるだろうと、私は喜び勇んだものです。
 で、その晩、例の時刻に、モルヒネの注射針を左の眼にずぶりと突刺して、徐々に注射しました。さすがに思う存分の痛みを味うことが出来ましたよ。
 旦那、旦那は、黒い焔《ほのお》というものを想像なさったことがありますか。モルヒネが左の眼に注射されて行くとき、私には何となく黒い焔といった感じがしましたよ。そうして、それきり私の左の眼は見えなくなってつぶれてしまいました。
 ふと、気がついて見ると、旦那、その日をいつだとお思いになります? 奴が死んだ日から、ちょうど四十九日目でしたよ。
 その翌日からは、不思議にも、モルヒネがほしくなくなりました。その代り、私は生れもつかぬ盲人《めくら》になりました。
 ですから旦那、モルヒネ中毒は、眼をつぶせばなおると私は今でも思って居るのです……」
 じっと聞いて居た彼は全身にはげしい寒さを感じた。按摩の話し終ると同時に揉み終ったが、彼はもはや巻煙草をふかす勇気もなく、按摩の顔を見るのが恐しかったので、黙って紙入の中から一円札を取り出して、按摩の手に握らせた。
 老按摩はそれをすなおに受取って懐にしまい、立ちぎわに、又もや狡猾《ずる》そうな笑いを浮べて言った。
「えへへ、旦那、怒っちゃいけませんよ。今の話
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