訪ねますと、彼女は昨日とは打って変わった力のない声をして言いました。
「先生、弱い人間だとお笑いになるかもしれませんが、もし手術で死ぬようなことがあるといけませんから、わたしの死後のことをお願いしておきたいと思います。わたしの少しばかりのお金の処分は先生にお任せしますが、わたしの死骸《しがい》についてはわたしの申し上げるとおり処置していただきたいと思います。わたしがもし助かりましたならば、取り出していただいたメデューサの首を自分で焼いて眺めたいと思いますが、もし死んだ場合には、わたしの身体とともに焼いて、その燃えてなくなる姿をわたしに代わって先生に眺めていただきたいと思います」
これを聞いて、わたしは言うに言えぬ恐怖を覚えました。もし手術が無事に済んで、麻酔から醒《さ》めたのちメデューサの首を見せてくれと言われたらどうしようかと考えました。いっそ彼女が手術中に死んでくれたほうが……というような考えさえ起こってきました。
「それに先生、実を言うと、わたしはまだもう一つ心に願っていることがあるのです。それは温泉宿でわたしのお腹に悪戯書きをした人間を捜し出し、思う存分|復讐《ふくしゅう》してやりたいということです。しかし、それがだれであるかはもとよりわかりません。が、もしわたしが死にましたら、きっと復讐ができると思うのです。魂はどんなむずかしいことでもするということですから」
わたしはそれを聞くと、ひょろひょろと倒れるかと思うほどの恐怖を感じました。なんという戦慄《せんりつ》すべき女の一念であろう。
「復讐といって、どんなことをするのですか」
と、わたしが思わずも訊ね返しました。
「魂だけになったら、その人間に一生涯しがみついてやるのです」
わたしはなんだか息苦しくなってきたので、
「よろしい、万事あなたの希望通りにします。しかし、死ぬというようなことは決してないと思います」
こう言ってわたしは、彼女の病室を出て手術の準備をいたしました。
ところが、わたしの予想は悲しくも裏切られ、彼女の心臓は麻酔にさえ堪え得ないで、手術を始めて五分|経《た》たぬうちに死んでしまいました。こう言ってしまうとすこぶる簡単ですけれど、わたしがその間にいかに狼狽し、苦悶し、悲痛な思いをしたかは、あなたがたのお察しに任せておきます。
かくて、彼女は自分の妄想の犠牲となって死んでいきました。もっとも、どうせ長くは生きることのできぬ身体でしたから、あえて、わたしが殺したとは言えませぬけれど、わたしにはどうしても、彼女の死に責任があるような気がしてなりませんでした。
わたしは彼女の冷たくなった死骸を眺めて、彼女が生前に言った恐ろしい言葉を思い出してぎょっとしました。彼女ははたして、魂となって彼女のお腹にメデューサの首を描いた人間にしがみついているのであろうか。
わたしはそれから、彼女の希望通りに××火葬場へ彼女の死骸を運んで、焼いてもらうことにしました。
いよいよ彼女が煉瓦造《れんがづく》りの狭い一室に入れられて焼かれはじめたとき、わたしは恐ろしくはありましたけれど、約束通り彼女の焼ける姿を眺めることにしました。いやわたしは、なんとなく眺めずにはいられないような衝動に駆られたのです。
いまから思えば、わたしはそれを見ないほうがよかったのです。といって、別に超自然的な出来事が起こったわけではありません。それはきわめて平凡な、当たり前のことでしたが、わたしのいやが上にも昂奮《こうふん》せしめられた心は、彼女の焼ける姿に恐ろしい妄覚を起こしたのです。
彼女は身体じゅう一面に紅《あか》い焔《ほのお》に舐《な》められておりました。ところが、その焔の一つ一つが紅い蛇に見えたのです。いわば彼女の全体の燃えている姿が、一個の大きなメデューサの首に見えたのです。そうして幾筋とも知れぬ焔の蛇が、わたしが鉄窓から覗いたときにいっせいにわたしのはうにのめりかかってくるように思いました。
あっと思ったが最後、わたしはその場に卒倒してしまいました。
お話というのはこれだけですけれど、最後にぜひお耳に入れておかねばならぬ大切なことがあります。もはやお察しになったかもしれませんが、実は彼女のお腹ヘメデューサの首の悪戯書きをしたのは、かく申すわたし自身だったのです。わたしは卒業試験準備をするために、×××温泉へ行って彼女と同じ宿に泊まり合わせました。彼女は不思議な女として宿の人たちの評判となっていました。わたしは好奇心に駆られて彼女の様子をうかがっているうちに、彼女が一種の変態性欲、すなわちナルシシズムを持っていることを発見しました。そこで持ち前の悪戯気を起こして、彼女の肉体に墨絵を描いて驚かしてやろうと決心し、機会を狙《ねら》っていました。で、ある日、彼女が湯へ行ったあとでそっと彼女の部屋へ入って、紅茶の土瓶の中へ催眠剤を入れておくと、はたして彼女は紅茶を飲み、間もなく眠りました。そこでわたしは、硯箱《すずりばこ》を持って彼女に近寄り、何を描こうかと思ってふと傍らを見ると、ギリシャ神話の本が開いたままになり、メデューサの首の絵が出ておりましたので、これ究竟《くっきょう》と、それを描いてそっと忍び出たのであります。あくる日彼女が宿を去りましたので、さては自分の悪戯のためかと少しは気になりましたが、そのまま忘れておりました。ところが偶然にも、開業してからただいまお話ししたように彼女の訪問を受け、そうしてあの恐ろしい経験をしたのであります。すべてが偶然の集合でありながら、わたしはなんとなく彼女の死に関係があるように思い、焼場で卒倒してから一時頭がぼんやりしましたので、とうとう医業を廃することになりました。これというのも彼女の執念のせいかもしれません。ことによると、彼女の魂がいまもなおわたしの身体にしがみついているかもしれません。
だからわたしは、若い女の身体に落書きをすると、意外な悲劇が起こらないとも限らぬと申し上げたのです。
底本:「大雷雨夜の殺人 他8編」春陽文庫、春陽堂書店
1995(平成7)年2月25日初版発行
入力:大野晋
校正:しず
2000年11月28日公開
2005年12月12日修正
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