ーサの首の話をご承知でしょう。わたしのお腹の中にはメデューサの首が宿っているのですね。先生、よくご覧なすってください。メデューサの髪の毛の蛇が、わたしの皮膚の下でうねうね動いているのが見えましょう。どうです、動いているではありませんか」
 わたしはこれを聞いて、とんでもない患者が訪ねてきたことを悲しみました。彼女はたしかに発狂しているのだ。病気の苦しさのために精神に異常を来したのだ。と、考えながらも、彼女の言葉に少しも発狂者らしいところがないのを不審に思いました。恐らくヒステリーの強いのであろう。そうして、お腹の皮下の血管の有様と、お腹の大きくなったのを見て、メデューサの首を妊娠したものと思い込んだのであろうと考えました。しかし、彼女がメデューサの首だと認めているのは、彼女が肝臓硬変症であることを説明するに都合よく、なおまた彼女の妄想を打ち消すにも役立つから、いっそこの場で彼女の病気の真相を告げたほうが、メデューサの首を妊娠したなどという妄想に悩むよりも幸福であろうと思って、わたしは肝臓硬変症によって起こる症状を詳しく説明して聞かせました。
 ところが、わたしのこの説明はわたしの予期したのとまったく正反対の結果をもたらしました。すなわち彼女は、わたしの言葉を聞くなり、
「そーれご覧なさい。先生にも、わたしのお腹に宿っているのがメデューサの首であることがわかっているではありませんか。わたしがメデューサの首を孕《はら》んでいるということをわたしに言いたくないので、勝手にそんな病気の名前を拵《こしら》えて、わたしをごまかそうとなさるのでしょう。どうか先生、本当のことをおっしゃってください」
 彼女はまったく真面目でした。わたしはむしろ呆《あき》れるよりも気の毒になってきました。いったい、どうして彼女はそうした頑固な妄想を得たのであろうか。素人として自分の腹壁の血管を見ただけで、はたしてメデューサの首だと連想し得るものであろうか。いやいや、これには必ず何か深い理由《わけ》があるに違いない。彼女のこの妄想を除くには、まずその原因を知らねばならない。こう考えてわたしは、
「いったい、あなたはなぜメデューサの首を妊娠したのだと信ずるのですか。人間がそんな怪物を孕むということは絶対にあり得ないではありませぬか」
 と訊ねました。
 これを聞くと彼女は悲しそうな表情をしました。
「ああ、先生はちっとも、わたしに同情してくださらない。昔、中国の何とかいう女は鉄の柱によりかかって鉄の玉を妊娠して産み落としたというではありませぬか。わたしにも、メデューサの首を妊娠するだけの立派な理由があるのです」
「それはどういう理由ですか」
「では先生、一通りわたしの身の上話をしますから聞いてください。わたしはもと奇術師の△△一座に雇われていた女優でした。わたしの孤児であるということが、そうした運命にわたしを導いたのですが、ほかの人たちと違って身持ちがよかったために少しばかりのお金を貯《た》めることができました。ああいう社会へ入ると、とかく堕落しやすいのですが、わたしには生まれつきの妙な癖があって今日まで処女を保つことができたのです。その妙な癖というのは、さあ、なんといってよいのでしょう。先生はむろん、ギリシャ神話の中のナーシッサスの伝説をご承知でしょう。ナーシッサスが双子の妹を失って、悲しみのあまりある日泉を覗《のぞ》くと自分の姿が映り、それを妹だと思って懐かしんだというあの悲しい話を。わたしはちょうどナーシッサスが自分の身体に愛着の念を起こしたように、われとわが身体に愛着の念を起こすのでした。わたしの朋輩《ほうばい》たちが、恋だの男だのと騒いでいるのに、わたし一人は自分自身を恋人として男を近づけるのをかえって恐ろしく思いました。男を近づけて、その男のためにわたし自身の恋人、すなわち自分の身体を奪われることが惜しかったからです。わたしはいつも一人きりになると、鏡の前に坐《すわ》ってじっと、その奥にあるわたしの身体を見つめました。肩のあたりから、胸へかけての柔らかい曲線がいうにいえぬほど懐かしみを覚えさせて、思わずも鏡に接吻《せっぷん》するのが常でした。といって、わたしは肉体的・生理的に不具なところはありませんが、異性に対しては何の感じも起きませんでした。わたしの美貌《びぼう》――自分で言うのは変ですけれど――を慕って、わたしに近づいてくる男はかなりに沢山ありましたけれど、わたしはただ冷笑をもって迎えるばかりでした。手を握らせることさえわたしは許しませんでした。たまたま他人の身体がわたしの身体に偶然触れるようなことがあっても、わたしは自分の身体に対して、激しい嫉妬《しっと》を感じました。わたしは自分の容色を誇りました。しかし、それはただ自分の心を満足させるためでありまして、わたしは自分自身のためにわたしの容色が永遠に衰えないことを祈ったのであります。
 ところが、いまから一年ばかり前に、わたしは神経衰弱にかかって一座を引退し、×××温泉にまいりました。それはちょうど夏のことでしたが、山中のこととていたって涼しく、わたしの宿は避暑客で賑わっておりました。一月ばかり滞在するうちに、すっかり神経衰弱はよくなり、わたしの身体には肉がついてきましていっそう美しくなり、したがって毎日鏡の前で過ごす時間がかなりに長くなりました。いま申し上げたような理由で、他人に顔を合わすのがなんとなく厭であったので、特別室の湯に入るほかは部屋の中へ引っ込み勝ちにしておりましたが、そうすると他人の好奇心を刺戟《しげき》するとみえて、わたしを見たがる人が滞在客の中にもかなりに沢山ありました。
 部屋の中に引っ込み勝ちにしていた関係上、わたしは盛んに読書をしました。なかにもわたしはギリシャ神話を好みました。ところがある暑い日の午後、湯に入って紅茶を飲み、例のごとく神話の書物を開いてちょうどゴーゴンの伝説を読んでいますと、常になくしきりに眠けを催し、書物を開いたまま眠りました。すると、わたしは恐ろしい夢を見たのであります。夢の中でわたしがパーシュース(ペルセウス=ギリシャ神話の英雄)となってメデューサの首を切り落とすと、その恐ろしい首がわたしのお腹へ飛び込みました。はっと思ってわたしが跳ね起きますと、なんだか頭が重くて、時計を見ると三時間も寝たことがわかりましたので、びっくりして鏡に向かって髪を梳《と》きつけ、例のごとく裸になりますと、その時わたしは思わずもひやっという叫び声を上げました。わたしのお腹の上いっぱいに、メデューサの首がありありと現れているではありませんか。わたしは夢の中のことを思い、この不思議な現象を見て、生まれて初めての大きな驚きを感じました。わたしは一時気が遠くなるように覚えましたが、よくよくお腹を見ると、メデューサの首は墨で描かれたものでありまして、手に唾《つば》をつけてその上を擦《こす》るとよく消えましたから、わたしはさっそく手拭《てぬぐい》に湯を浸《し》ませてお腹の上に描かれたメデューサの首を拭い取ってしまいました。
 それからわたしが冷静になって考えますと、たしかにだれかが催眠剤によってわたしを眠らせ、メデューサの首の悪戯書きをしたに違いないと思いました。わたしは悪戯そのものよりも、他人がわたしの肉体に触れたということにいっそう腹が立ちました。それと同時にわたしは、メデューサの首がわたしの身体の中に飛び込んだという夢が正夢に思えて、身震いを禁ずることができませんでした。
 わたしは悪戯をした人間を憎みましたけれど、事を荒立てて穿鑿《せんさく》することを好みませんでした。で、わたしはそうそうその宿を引き払って東京に帰りましたが、メデューサの首がわたしの身体に飛び込んだという夢と、墨の線でお腹いっぱいに描かれたメデューサの首の印象とが、いつまでも消えないばかりか、日を経てますますそれがはっきりわたしの心に浮かびました。うねうねとした線で表された蛇の姿が、鏡を見るたびごとにお腹の上に幻覚として現れ、のちには鏡を見ることさえ恐ろしくなってきました。
 東京へ帰った当座はなんともありませんでしたが、二月ほど過ぎると身体に異常を覚えました。だんだん身体が痩《や》せていくような気がして息切れがはげしく、月経が止まりました。月経が止まると同時に、わたしのお腹が少しく膨らんできたように思われました。わたしはもしやメデューサの首を夢通りに妊娠したのではないかと思って、心配が日に日に増していきましたが、とうとうわたしの心配が現実となって現れました。
 ある日わたしが鏡に向かって膨らんだお腹をよく見ますと、皮膚の下にかすかに蛇のうねりが見えるではありませんか。いよいよメデューサの首がお腹に宿ったのだ! こう思うとわたしは気が違うかと思うほどびっくりしました。それからというもの、来る日も来る日も、わたしがいかに苦しい思いをしたかは先生にもお察しがつくだろうと思います。わたしはだんだん痩せました。肩から胸へかけての美しい曲線は見苦しく変化しました。メデューサの首のために、わたしの恋人すなわちわたしの身体が破壊されるかと思うと、どうにも我慢ができなくなって、ついにこうして先生のもとにお伺いしたわけでございます。先生、これでもまだ、先生はわたしがメデューサの首を孕んだのではないとおっしゃいますか」
 わたしはこの話を聞いて、なんと答えてよいか迷いました。わたしはもはや彼女に反抗する勇気がなくなってしまいました。
「それについて、先生にお願いがあるのです」
 と、彼女はいっそう力を込めて語りつづけました。
「わたしは今日までどうにか辛抱してきましたが、もうこれ以上メデューサの首のために、わたしの肉体の破壊されるのを許すことができなくなりました。ですからわたしの腹を断ち割って、メデューサの首を取り出していただきたいと思います。ね、先生、どうか気の毒だと思いになったら、わたしの願いを聞いてください」
 わたしはぎくりとしました。この恐ろしい難題にぶつかってわたしははげしい狼狽《ろうばい》を感じました。わたしはむしろこの場から逃げ出してしまおうかと思ったくらいでした。すると、わたしの狼狽を見て取った彼女は、
「先生、先生はたぶん、わたしのような妙な癖を持った者が、平気で他人に身を任せて手術を受けることを不審に思いになるでしょう。けれども、自分の容色の美を保つためならば、わたしはあらゆることを忍びます。メデューサの首を取り出してしまえば、わたしの容色を取り返すことができます。その喜びを思えばどんな犠牲でも払うのです。ね、先生、潔く手術を引き受けてください」
 わたしはなんとなく一種の威圧を感じました。とその時、わたしにある考えが電光のように閃《ひらめ》きました。そうだ、この女の腹水を去らせ、血液の循環をよくしさえすれば、それでメデューサの首も取れることになるのではないか。いっそ潔く手術を引き受けて肝臓硬変症に対する手術を行ってやろう。こう思うと、わたしは肩の荷を下ろしたような気持ちになりました。だが、この衰弱した身体がはたして手術に堪えるであろうか。
「よろしい。手術はしてあげましょう。しかし、あなたはたいへん衰弱しておいでになりますから、はたして手術に堪えることができるか、それが心配です」
「手術してもらって死ぬのなら本望です」
 と、彼女は言下に答えました。
「手術してもらわねば、しまいにはメデューサの首にこの身体を奪《と》られてしまうのですから、一日も早く、わたしのいわば恋敵ともいうべき怪物を取り除いてしまいたいのです」
「よくわかりました。それでは明日手術しましょう」
 と、わたしは答えました。
 翌日の午前に、わたしは手術を行うことに決心しました。わたしはその場合きっぱり引き受けたものの、とうてい彼女の容体では麻酔と出血には堪え得ないだろうと思って不安の念に駆られました。で、その晩はいろいろなことを考えて充分熟睡することができませんでした。
 いよいよ当日が来ました。わたしが手術前に彼女を
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