はっきりわかる真面目顔になり、しばらくの間黙って考え込みました。
 わたしはなんとなく気まずい思いをして町田と顔を見合わせ、雨に叩《たた》かれている海の上に目を放ちました。とその時、紳士は突然、
「こんなことを言うと変に思いになるかもしれませんが、よしそれが冗談であるにしても、若い女の身体へ絵を描《か》くことは決してなさるものではありませんよ」
 と言いました。
 紳士の声がいかにも鹿爪《しかつめ》らしかったので、わたしたちは思わずその顔に見入りました。
「それはまたなぜですか」
 と、町田が訊ねました。
 紳士はまたもやしばらく黙っていましたが、ちょっと軽い溜息《ためいき》をついて、
「うっかりすると、意外な悲劇が起こらぬとも限らないからです」
 と言いました。
 わたしは少々薄気味の悪い思いをしました。その時、湿っぽい風が吹いてきて、夏ながらぞっとするような感じを喚《よ》び起こしました。いったいこの紳士は何者であろう。なぜこんな気味の悪いことを言うのであろう。女の身体に絵を描くことがなぜ意外な悲劇を起こすのであろう。と、これらの疑問が浮かぶと同時に、わたしの心の中には一種の好奇心がむらむらと起こってきました。この紳士はきっと何か違った経験をしたことがあるに違いない。女の身体に絵を描いたことが何か意外な悲劇を起こしたに違いない。こう思うと、わたしはその事情が訊《き》いてみたくてなりませんでした。町田もちょうどわたしと同じような心持ちになったとみえて、
「意外な悲劇というのは、どんなことですか?」
 と訊ねました。
 すると紳士は、
「いや、こんな妙なことを言い出して、定めしあなたがたに変な思いをさせたことでしょう。実はわたし自身の経験から申し上げたのでして、言い出した以上、一通りわたしの経験を申し上げることにしましょう」
 と言って、次のような話を語りはじめました。その時、あたりはもうすっかり闇《やみ》に包まれていましたが、紳士は灯《あかり》を点《つ》けようともしませんでした。
 わたしはいまでこそなにもやらないで、こうしてぶらぶらしておりますが、実はあなたがたの先輩なのですよ。明治××年にT医科大学を卒業して産婦人科の教室に半年あまり厄介になり、両親の希望によって、すこぶる未熟な腕を持ちながら日本橋のK町に病院を建てて診察に従事しました。わたしも学生時代には、あ
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