もったというよりも考えることを余儀なくされたといった方が適当であろう。
僕は昨日の晩まで、自殺すべき事情が発生するとは夢にも思わなかったのだ。だから、君たちの接吻を見た瞬間に自殺を決心しても、そのとき、ナイフを以って居るでなし、毒薬を携えているでなし、すぐさま自殺を決行するだけの条件がととのって居なかったのだ。だから、当然、いかなる方法をもって死ぬべきかに考え及んだのである。
さて、いよいよ自殺方法を考えるとなると、不思議なもので、おいそれ[#「おいそれ」に傍点]と決定することは出来ぬものだ。もしあの時、身辺に日本刀があったならば、僕は何の躊躇もなくその鞘を払って頸動脈を切ったであろう。もし又、窓の前が千|仞《じん》の谷になって居たならば、有無をいわず、この身を投げたであろう。
然るに、一旦、どの方法を選ぶかということになると、もはや、日本刀の鞘を払う気にもなれなければ、千仞の谷に近よることもいやになった。共に苦痛を伴うからである。だから、僕は苦しまずに死ねる方法を考えたのだ。
苦しまずに死ねる一ばんよい方法といえば、縊死《いし》に限るということを法医学の講義できいた。縊死の際には、頸動脈が圧迫されるので、脳への血行が遮断され、それがために何の苦痛も感じないということだ。けれども、君も経験したことがあるだろう、息のつまるときの感じを。あの厭な感じが、きっと縊死には伴うだろうと僕は思うのだ。それが僕には何としても堪えられないのだ。僕は別に縊死に対して美的嫌悪を感じない。それは決して美しい姿ではないが、どんな方法で死んだところが、死の姿はさほど美しいものではないのだ。だから、特に縊死を醜いとも思わぬが、縊死する瞬間に起こるであろう苦しい感じ、いわば生き埋めの時に起こるであろうところの恐ろしさ、かの精神分析学者のいわゆる、子宮内にとじこめられて居たときに得た恐怖その恐怖感の起こるのが、如何にも忍び得ないのだ。実際には或はそのような恐怖は起こらないかも知れない。けれども、起こるであろうと想像されるのが厭で厭でならぬのだ。
だから、僕は縊死はやめた。又、創傷《そうしょう》を造って死ぬのは痛いから厭だ。で、僕は毒薬死を選ぶことに決したのである。
しかし同じ毒薬でもはげしい症状を伴うものは好ましくない。又味の悪いのも面白くない。亜砒酸は無味であるけれども、劇烈な胃腸症状の起こるのは何としても不愉快である。又青酸は瞬間的に死を起こすといわれておるが延髄の呼吸中枢を冒して窒息を起こさせるのだから、僕にはやはり縊死と同じように恐ろしいのだ。で、結局は、愉快に眠って、眠ったまま、いつとはなしに死んで行ける催眠剤の種類が僕にとっては一ばん好都合なのである。
同じ催眠剤のうちでも、味の苦いのは御免だ。また多量に服用しなければならぬものも御断りしたい。が、それについて幸福なことは、こんど発見された――という催眠剤だ。これは君も知っているとおり、味もなければ臭気もなく、又極めて水に溶解し易く、かつ〇・二グラムという少量で二十貫の体重の人を殺すことが出来るのだ。それにこの新薬はその作用が、服用後一時間にあらわれ、しかも服用後五分間には血中に吸収されるのであるから、モルヒネやその他の薬剤とちがって、服用五分後に胃を洗滌しても、最早その人を救うことが出来ないのだ。まったく僕のような感情を持ったものが自殺するには屈竟な毒であるといってよい。
医者をして居る御かげに、この――を手に入れる苦心はいらない。その点には何等の考慮を費さずに死ねるのだ。然し、僕がこの――で死ぬことに決定するまでには、自殺を決心した午後七時から、凡《およ》そ五時間かかったよ。では、何故、ゆうべのうちに――をのまなかったかと君は問うであろう。いかにも、今この手記を認《したた》めて居るのは午前五時であるから、約五時間ほどの時間が空費されたのだ。然し、それは決して空費されたのではなく、その間に極めて重大なことが計画されたのだ。
しからば、僕がどんなことを計画したかというに、これは僕の意志の弱さから起こったことであるから、まことに慚愧《ざんき》に堪えないが、いざ――をのむ段になると、僕の手は急に硬ばったような気がしたよ。そこで――を一先ず机の上において、何故に、僕の手が服用を躊躇するに至ったかを、静かに分析考慮したのだ。
すると僕は意外なことを発見した。即ち、たとい一旦死を覚悟しても、いつの間にか生に対する執着が心の中で頭をもたげていることに気づいたのだ。もし僕が、自殺を決心した直後に死んでいたらば、生に対する執着などは起こりそうにないが、自殺の方法を考えて居る五時間のあいだに、自分では他事を考える余地はないと思っていたにかかわらず、入道雲のように生の執着が心の一方に蟠《わだかま》
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