》他人が外部へあらわした悪のために振動させられ、その悪のヴァイブレーションが、その人に向って一種異様な好奇の感じを与えるからではあるまいか。つまり人々が犯罪に興味を持つのは、悪を恐怖するというよりも、何となく悪に愉悦を感ずるからだと私は解釈したいのである。然るに、悪いことをすれば、法律というもののために罰せられねばならない。従ってそこに法律という厭なものに触れる恐ろしさ遣瀬《やるせ》なさが生じて来る。この気持を探偵小説家が無視していると思っては間違いである。例えば江戸川兄の「心理試験」の中には、この気持が遺憾なく描き出されてあることを見のがしてはならない。だから、探偵小説に、犯人が見つけ出される経路が描かれてあったとて、それを直ちに、「悪」を恐怖し、「善」を讃美するものと認めることは当を得ていないかと思う。
いや、思わずも少しく議論めいて来たが、近来ぼつぼつ探偵小説の本質に関する論議が行われるようになったから、物にはどんな理屈でも附くものだということを書いて見たのに過ぎないのであって、探偵小説のねらっている所は、決して「犯罪」ばかりではないのである。
従来、探偵小説というと、何だか
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