としても、バーンスとなるとそうはいかない。ところがバーンスの記述を読むと幾分かポオの記述と似ていて、しかも前に述べたように、腰のまわりに短い紐で重い石が附けられてあったと書かれているのである。然《しか》るに死体を最初に発見した人たちは、身体には紐や縄らしいものは一本も附いていなかったと証言しているのであって、こうなると一たいどう信じてよいか判断がつきかねるのである。
もし医師の検案書が果して他の新聞に発表されたとしたならば、ポオは死体が幾日間水中にあったということについて、ヂュパンに長い議論をさせる必要はない筈である。なお又、死体がメリーであるか無いかの疑問も起らない訳であって、あの長々しいアイデンチフィケーションに関する説明もしなくってすんだ訳である。しかし、探偵小説を書くためには、溺死体が水に浮ぶか否かの議論もしなければならぬし、又、個体鑑別論も書かなければならない。実際あの小説の三分の一を占める明快な個体鑑別論によって、読者はヂュパンの驚くべき推理に敬服し、次で行われる事件の解決を一も二もなく受け容れねばならなくなるからである。だから、私たちは、ポオの引用したエトワール紙(事実ではニューヨーク・ブラザー・ジョネーザン紙)の「死体はマリーに非《あら》ず」という議論は、恐らく、ポオが議論するために仮に設けたのではあるまいかと疑って見たくなる訳である。
発見された死体の状態の記述がこのように区々《まちまち》である以上、たとい死体がマリーであることに疑ないとしても、彼女がどんな風な殺され方をしたかということを、死体の状態から判断することは不可能である。従って私たちは、死体を離れて、注意をホボーケンに向け、もって彼女の死の真相を推察しなければならぬのである。
ところが、前に記したように、ホボーケンで、彼女を見たというロッス夫人やアダムスの証言は決して断定的のものではない。又森の中で発見されたというマリーの所有品の記述も、どこまでが本当であるかを知るに由ないのである。従ってポオの、犯人は一人であって、悪漢たちの仕業《しわざ》でないという結論も容易に賛成することが出来ないのである。ポオはメリーの第一回の失踪が海軍士官と一しょであったことから、海軍士官が犯人だろうと推定し、メリーの心を想像して次のように書いている。
「……自分は或る人と駈落ちの相談をするために会うことに
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