したやうに感じた。
 明治卅一年から六年間、予は萬朝報の厄介になつた、此社には当時黒岩君を始め内山、山県、斯波、田岡、丸山(一通)久津見などいふ洋学者が揃つたので、予は自己の力の乏しきことを感ずること益々切に、発奮して書を読むことを志し、盆暮に貰ふ賞与は、少しは芳原へも持て行たが多分は書物を買つて読だ、社会主義に関する書物は多く此間に読だのだが、社の翻訳をやる必要はなかつた、新聞雑誌を目ばやく通読して、重要な珍事奇聞を拾ひ出して並べるのは、朝報社の斯波貞吉君が最も秀抜な技能を有して居る、是れ又一種の翻訳法である。
 卅六年の暮、日露開戦の前から、週刊平民新聞を出して、予は又た毎週多くの翻訳をせねばならぬことゝなつた、即ち外国から来る十数種の社会主義、無政府主義新聞雑誌から世界の重なる社会運動の状況を毎号の我が雑誌に訳載して、読むのと書くのとで徹夜したのは毎度であつた、然るに翌年の夏、倫敦タイムスにトルストイの日露戦争論が出たとのルーター電報は世界を驚かした、程なく同新聞は日本に着た、東京朝日の杉村楚人冠君が、本紙と切抜と二つあるから一つ分けやう、と言て持て来てくれたのが月曜日であつた、
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