のとは丸で趣きが違ふので、初めは大に面食つた、そして僅か三行か四行づゝの電報に毎日々々四苦八苦の思ひをして訳し出したが、翌朝他の新聞と比べて見ると無論誤訳だらけである、面目ないやら苦しいやらで殆と泣出したくなつたことが屡々であつた、併し社では誤訳を責めもしないければ、放逐もしなかつた、月給六円で完全に翻訳家の雇はれる筈がないので。
一年半程して、日清戦争の最中に、中央新聞に転じた、此処でも電報の誤訳で大恥を掻く外に、英米の新聞雑誌を摘訳する、是が又頗る厄介である、固より文学物や議論と違つて、唯だ事実の要点だけをサラ/\と短かく書けば良いのだが、沢山な新聞雑誌に一通り目を通す、目ぼしい雑報を見つけ出す、夫をスツカリ読了し、若くば読了せずに要点を取るといふのが、素人では出来ぬ、可なり修練を要する仕事である、僅か十行二十行の雑報の為めに三百行、五百行も読まねばならぬこともあれば、三頁も五頁も読で見て、何にもならぬ時もある、日清戦役、三国干渉などいふ時分で、極東の外交、列国の意嚮などいふ問題は細大洩らず見なければならないのだ、こんなことを一二年やる間に、自分ながら新聞雑誌を読む力は少しく進歩したやうに感じた。
明治卅一年から六年間、予は萬朝報の厄介になつた、此社には当時黒岩君を始め内山、山県、斯波、田岡、丸山(一通)久津見などいふ洋学者が揃つたので、予は自己の力の乏しきことを感ずること益々切に、発奮して書を読むことを志し、盆暮に貰ふ賞与は、少しは芳原へも持て行たが多分は書物を買つて読だ、社会主義に関する書物は多く此間に読だのだが、社の翻訳をやる必要はなかつた、新聞雑誌を目ばやく通読して、重要な珍事奇聞を拾ひ出して並べるのは、朝報社の斯波貞吉君が最も秀抜な技能を有して居る、是れ又一種の翻訳法である。
卅六年の暮、日露開戦の前から、週刊平民新聞を出して、予は又た毎週多くの翻訳をせねばならぬことゝなつた、即ち外国から来る十数種の社会主義、無政府主義新聞雑誌から世界の重なる社会運動の状況を毎号の我が雑誌に訳載して、読むのと書くのとで徹夜したのは毎度であつた、然るに翌年の夏、倫敦タイムスにトルストイの日露戦争論が出たとのルーター電報は世界を驚かした、程なく同新聞は日本に着た、東京朝日の杉村楚人冠君が、本紙と切抜と二つあるから一つ分けやう、と言て持て来てくれたのが月曜日であつた、
前へ
次へ
全6ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸徳 秋水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング