で、訳語の一定して居るものは仔細ないが、或る専門語、術語などで未だ訳語の極まらぬ者に出会つた時の苦心は一通りではない、予が是れまで二三の社会主義書類を訳したのでさへ、随分悩んだことがある、例せば彼の社会党が多く使用するブールジヨアジー(Bourgeoisie)てふ語の如き、是れ迄或は中等市民と訳し、或は資本家、或は富豪、或は紳商などゝ訳してみたが、如何しても社会主義の所謂ブールジヨアジーの意義を完全に顕すことが出来ぬ、予は数年前堺枯川と『共産党宣言』を訳した時、両人で種々に相談した末に、逐に「紳士閥」と訳することに折合つた、固より此に紳士といふのは、ゼントルマンの如き立派な意味ではなくて、日本語に所謂紳士、即ち旦那連の意味に過ぎないので、能く労働者に対する中流以上の階級を代表し得たと思ふ。
 其他クラスコンシアスネス(階級的自覚)プロールタリアン(平民若くは労働者)エキスプロイテーシヨン(資本家が労働者に対する掠奪)エキスプロリエーシヨン(労働者が土地資本の収用)の如き、社会主義的に用ゆれば、特殊の意味を生ずるのが沢山ある、是まで一様に労働組合と訳された文字にも、ギルド、トレードユニオン、インダストリアルユニオン、レーボアユニオン、シンヂケートなど皆な夫々に別意義を有するので、別々に訳語を作らねばならなかつた、こんな種類を集れば数ふるに遑がない、夫れにつけても明治初年から、箕作、福沢、中村などいふ諸先生が、権利とか義務とかいふ訳語や、其他哲学、理化学、医学などの無数の用語を一定するのには、如何に苦心を重ねられたであらうと察する。
 適当な訳語が出来る、其を忠実に原文の字句を遂ひ一節、一段の順序に随い器械的に並べて、翻訳は出来るのであるかといへば、是れでは文字を並べたのみで決して文章を為すことは出来ぬ、完全な翻訳は其意義を明かにするのみでなく、其文勢、筆致をも写さねばならぬ、其原文の軽妙なるは軽妙に、流麗なるは流麗に、雅健なるは雅健に、滑稽なるは滑稽に伝へねばならぬ、然るに余りに忠実に原文の字句を遂はんとすれば、筆端窘束して訳文は丸で其生命を失つて了ふ、訳文をして原文の如き文勢筆致を保たんとせば、原文の字句を勝手に増損し、前後を倒置するなどの必要を生ずる、是れ実に責任ある翻訳家の進退両難とする所である、昔し三蔵法師も、経文の翻訳には余程テコズつたと見えて、翻訳は猶ほ食
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