何に其漢文に老けたる歟が分るではない乎。而して其著「理学鈎玄」は先生が哲学上の用語に就て非常の苦心を費したもので「革命前仏蘭西二世紀事」は其記事文の尤も精采あるものである。而して先生は殊に記事文を重んじた。先生曰く、事を紀して読者をして見るが如くならしむるは至難の業である。若し能く記事の文に長ずれば往くとして可ならざるなしであると。蓋し岡松先生の教に従ったのである。今先生の記事文の一節を掲げよう。
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 一日ルソー歩してワンセンヌに赴く。偶ま中路暑に苦み樹下に憩い携うる所の一新聞紙を披いて之を閲するに、中に載する有りチシヨンの博士会一文題を発し賞を懸けて能く応ずる者あるを募る。其題に曰く学術技科の進闡せしをば人の心術風俗に於て益有りしと為す乎将た害ありしと為す乎とルーソー之を読みて神気俄に旺盛し、意思頓に激揚し自ら肺腸の一変して別人と成りしを覚え、殆ど飛游して新世界に跳入せしが如し。因て急に鉛筆を執りファプリシュースの一段を草して之を懐にし既にワンセンヌに至りジデローを見るも猶お去気奪湧し血脈狡憤して自ら安んずること能わず。ジデロー一誦して善しと勧めて更に敷演して一論を完結せしむ。ルーソー其言に従う所謂非開化論なり。
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 而して先生は古今の記事文中、漢文に於ては史記、邦文では「近松」洋文ではヴォルテールの「シヤル・十二世」を激賞して居た。

     四

 先生の文章は其売れ高より言えば決して偉大なる者ではなかった。先生の多くの著訳書中、其所謂「生前の遺稿」なる「一年有半」及び「続一年有半」が翼なくして飛んだ外は、殆ど売れたという程の者はない。彼の「一年有半」「続一年有半」すらも、若し死に瀕しての著作でなかったならば、アノ十分の一も売れなかったかも知れぬ。
 先生の文章は当世に売らんが為めには、寧ろ余りに高過ぎた。先生の文章は曽て世間と伴わなった。曽て世間に媚びなかった。常に世間に一歩を先んじた。先生の文章は先生の至誠至忠の人格の発露であった。是れ先生の文章の常に真気惻々人を動かす所以であって、而も陽春白雪利する者少き所以である。而して単に其文字から言っても、漢文の趣味の十分に解せられない今日に於て、多数人士の愛読する所とならぬは当然である。先生「一年有半」中に、
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 夫文人の苦心は古人の後に生れ古人開拓の田地の外、別に播種し別に刈穫せんと慾する所の処に存す。韓退之所謂務去陳言戞々乎其難哉とは正に此謂いなり、若し古人の意を※[#「足+(日/羽)」、第4水準2−89−44、284下−11]襲して即ち古人の田地の種獲せば是れ剽盗のみ。李白杜甫韓柳の徒何ぞ曽て古今を襲わん。独り漢文学然るに非ず。英のシエクスピールやミルトンや仏のパスカルやコルネイユや皆別に機軸を出さざる莫し。然らずんば何の尊ぶ可きことか之れ有らん。
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 記してあるのみならず、平生予に向っても昔し蘇東坡は極力孟子の文を学び、竟に孟子以外に一家を成すに至った。若しお前が私の文を学んで、私の文に似て居る間は私以上に出ることは出来ない。誰でも前人以外に新機軸を出さねばならぬと誨えられた。先生の文章に於けるや、苦心常に此如きものがあった。先生の文は決して売らんがために作るものではなかった。其売れる売れないとは毫も文士として先生の偉大を損するに足らぬのである。



底本:「日本プロレタリア文学大系(序)」三一書房
   1955(昭和30)年3月31日初版発行    
   1961(昭和36)年6月20日第2刷
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2001年12月17日公開
2001年12月19日修正
青空文庫ファイル:
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