死生
幸徳秋水

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)就中《とりわけ》て

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)其|実体《サブスタンス》には

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「灰/皿」、第3水準1−88−74]《かぶと》に
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     一

 私は死刑に処せらるべく、今東京監獄の一室に拘禁せられて居る。
 嗚呼死刑! 世に在る人々に取っては、是れ程忌わしく恐ろしい言葉はあるまい、いくら[#「いくら」に傍点]新聞では見、物の本では読んで居ても、まさか[#「まさか」に傍点]に自分が此忌わしい言葉と、眼前直接の交渉を生じようと予想した者は一個もあるまい、而も私は真実に此死刑に処せられんとして居るのである。
 平生私を愛してくれた人々、私に親しくしてくれた人々は、斯くあるべしと聞いた時に如何に其真偽を疑い惑ったであろう、そして其真実なるを確め得た時に、如何に情けなく、浅猿しく、悲しく、恥しくも感じたであろう、就中《とりわけ》て私の老いたる母は、如何に絶望の刃に胸を貫かれたであろう。
 左れど今の私自身に取っては、死刑は何でもないのである。
 私が如何にして斯る重罪を犯したのである乎《か》、其公判すら傍聴を禁止せられた今日に在っては、固より十分に之を言うの自由は有たぬ。百年の後ち、誰か或は私に代って言うかも知れぬ、孰れにしても死刑其者はなんでもない。
 是れ放言でもなく、壮語でもなく、飾りなき真情である、真個に能く私を解し、私を知って居た人ならば、亦た此の真情を察してくれるに違いない、堺利彦は「非常のこととは感じないで、何だか自然の成行のように思われる」と言って来た、小泉三申は「幸徳もあれで[#「あれで」に傍点]可いのだと話して居る」と言って来た、如何に絶望しつらんと思った老いたる母さえ直ぐに「斯る成行に就ては、兼て覚悟がないでもないから驚かない、私のことは心配するな」と言って来た。
 死刑! 私には洵とに自然の成行である。これで可いのである、兼ての覚悟あるべき筈である、私に取っては、世に在る人々の思うが如く、忌わしい物でも、恐ろしい物でも、何でもない。
 私が死刑を期待して監獄に居るのは、瀕死の病人が施療院に居るのと同じである、病苦の甚しくないだけ更に楽かも知れぬ。
 これ私の性の獰猛なるに由る乎、癡愚なるに由る乎、自分には解らぬが、併し今の私に人間の生死、殊に死刑に就ては、粗ぼ左の如き考えを有って居る。

     二

 万物は皆な流れ去るとヘラクリタスも言った、諸行は無常、宇宙は変化の連続である。
 其|実体《サブスタンス》には固より終始もなく生滅もなき筈である、左れど実体の両面たる物質と勢力とが構成し仮現する千差万別・無量無限の個々の形体《フォーム》に至っては、常住なものは決してない、彼等既に始めが有る、必ず終りが無ければならぬ、形成されし者、必ず破壊されねばならぬ、生長する者、必ず衰亡せねばならぬ、厳密に言えば、万物総て生れ出たる刹那より、既に死につつあるのである。
 是れ太陽の運命である、地球及び総ての遊星の運命である、況《ま》して地球に生息する一切の有機体をや、細は細菌より大は大象に至るまでの運命である、これ天文・地質・生物の諸科学が吾等に教ゆる所である、吾等人間|惟《ひと》り此|鈎束《こうそく》を免るることが出来よう歟《か》。
 否な、人間の死は科学の理論を俟つまでもなく、実に平凡なる事実、時々刻々の眼前の事実、何人も争う可らざる事実ではない歟、死の来るのは一個の例外を許さない、死に面しては貴賎・貧富も善悪・邪正も知愚・賢不肖も平等一如である、何者の知恵も遁がれ得ぬ、何者の威力も抗することは出来ぬ、若し如何にかして其を遁がれよう、其れに抗しように企つる者あらば、其は畢竟愚癡の至りに過ぎぬ。只だ是れ東海に不死の薬を求め、バベルに昇天の塔を築かんとしたのと同じ笑柄である。
 成程天下多数の人は死を恐怖して居るようである、然し彼等とても死の免がれぬのを知らぬのではない、死を避け得べしとも思って居ない、恐らくは彼等の中に一人でも、永遠の命は愚か、伯大隈の如くに百二十五歳まで生き得べしと期待し、生きたいと希望して居る者すらあるまい、否な百歳・九十歳・八十歳の寿命すらも、先ずは六かしいと諦らめてるのが多かろうと思う、果して然らば彼等は単純に死を恐怖して、何処までも之を避けんと悶える者ではない。彼等は自ら明白に意識せると否とは別として、彼等が恐怖の原因は別に在ると思う。
 即ち死ちょうことに伴なう諸種の事情である、其二三を挙ぐれば、(第一)天寿を全うして死ぬのでなく、即ち自然
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