せずして、紛々として死に失せるのである。ひとり病気のみでない。彼らは、餓死する。凍死もする。溺死《できし》する。焚死《ふんし》する。震死する。轢死《れきし》する。工場の機械にまきこまれて死ぬる。鉱坑のガスで窒息して死ぬる。私欲のために謀殺される。窮迫のために自殺する。今の人間の命の火は、油がつきて滅するのでなくて、みな烈風に吹き消されるのである。わたくしは、いま手もとに統計をもたないけれど、病死以外の不慮の横死のみでも、年々幾万にのぼるか知れないのである。
鰯《いわし》が鯨《くじら》の餌食となり、雀が鷹の餌食となり、羊が狼の餌食となる動物の世界から進化して、まだ幾万年しかへていない人間社会にあって、つねに弱肉強食の修羅場を演じ、多数の弱者が直接・間接に生存競争の犠牲となるのは、目下のところやむをえぬ現象で、天寿をまっとうして死ぬというねがいは、無理ならぬようで、その実、はなはだ無理である。ことにわたくしのようなよわくおろかな者、まずしくいやしき者にあっては、のぞむべからざることである。
いな、わたくしは、はじめよりそれをのぞまないのである。わたくしは、長寿かならずしも幸福ではなく、幸福はただ自己の満足をもって生死するにありと信じていた。もしまた人生に、社会的|価値《バリュー》とも名づけるべきものがあるとすれば、それは、長寿にあるのではなくて、その人格と事業とか、四囲および後代におよぼす感化・影響のいかんにあると信じていた。今もかく信じている。
天寿はとてもまっとうすることができぬ。ひとり自分のみでなく、天下の多数もまたそうである。そして、単に天寿をまっとうすることが、かならずしも幸福でなく、かならずしも価値あるものでないとすれば、われらは、病死その他の不自然の死を甘受するのほかはなく、また甘受するのがよいではないか。ただわれらは、いかなるとき、いかなる死でもあれ、自己が満足を感じ、幸福を感じて死にたいものと思う。そして、その生においても、死においても、自己の分相応の善良な感化・影響を社会にあたえておきたいものだと思う。これは、大小の差こそあれ、その人びとの心がけ次第で、けっしてなしがたいことではないのである。
不幸、短命にして病死しても、正岡子規君や清沢満之君のごとく、餓しても伯夷や杜少陵のごとく、凍死しても深草少将のごとく、溺死しても佐久間艇長のごとく、焚死しても快川国師のごとく、震死しても藤田東湖のごとくであれば、不自然の死も、かえって感嘆すべきではないか。あるいは道のために、あるいは職のために、あるいは意気のために、あるいは恋愛のために、あるいは忠孝のために、彼らは、生死を超脱した。彼らは、おのおの生死もまたかえりみるにたりぬ大きなあるものを有していた。こうして、彼らのある者は、満足にかつ幸福に感じて死んだ。そして、彼らのあるものは、その生死ともに、すくなからぬ社会的価値を有しえたのである。
如意輪堂の扉にあずさ弓の歌を書きのこした楠|正行《まさつら》は、年わずかに二十二歳で戦死した。しのびの緒をたち、兜に名香を薫《くん》じた木村|重成《しげなり》もまた、わずかに二十四歳で戦死した。彼らは各自の境遇から、天寿をたもち、もしくは病気で死ぬことすらも恥辱なりとして戦死をいそいだ。そして、ともに幸福・満足を感じて死んだ。そしてまた、いずれも真にいわゆる「名誉の戦死」であった。
もし赤穂浪士をゆるして死をたもうことがなかったならば、彼ら四十七人は、ことごとく光栄ある余生を送って、終りをまっとうしえたであろうか。そのうち、あるいは死よりも劣った不幸の人、もしくは醜辱の人を出すことがなかったであろうか。生死いずれが彼らのために幸福であったか。これは問題である。とにかく、彼らは、一死を分《ぶん》として満足・幸福に感じて屠腹した。その満足・幸福の点においては、七十余歳の吉田忠左衛門も、十六歳の大石|主税《ちから》も、同じであった。その死の社会的価値もまた、寿夭《じゅよう》(長命と短命)の如何に関するところはないのである。
人生、死に所を得ることはむつかしい。正行でも重成でも主税でも、短命にして、かつ生理的には不自然の死であったが、それでも、よくその死に所を得たもの、とわたくしは思う。その死は、彼らのために悲しむよりも、むしろ、賀すべきものだと思う。
四
そうはいえ、わたくしは、けっして長寿をきらって、無用・無益とするのではない。命あっての物種《ものだね》である。その生涯が満足な幸福な生涯ならば、むろん、長いほどよいのである。かつ大きな人格の光を千載にはなち、偉大なる事業の沢《たく》を万人にこうむらすにいたるには、長年月を要することが多いのは、いうまでもない。
伊能|忠敬《ただたか》は、五十歳から当時三十余歳の高橋作左衛門の門にはいって測量の学をおさめ、七十歳をこえて、日本全国の測量地図を完成した。趙州和尚は、六十歳から参禅・修業をはじめ、二十年をへてようやく大悟・徹底し、以後四十年間、衆生《しゅじょう》を化度《けど》した。釈尊も、八十歳までのながいあいだ在世されたればこそ、仏日《ぶつじつ》はかくも広大にかがやきわたるのであろう。孔子も、五十にして天命を知り、六十にして耳したがい、七十にして心の欲するところにしたがい矩《のり》をこえず、といった。老いるにしたがって、ますます識高く、徳がすすんだのである。
このように非凡の健康と精力とを有して、その寿命を人格の琢磨《たくま》と事業の完成とに利用しうる人びとにあっては、長寿はもっとも尊貴にしてかつ幸福であるのは、むろんである。
しかも、前にいったごとくに、こうした天稟・素質をうけ、こうした境界・運命に遇《あ》いうる者は、今の社会にはまことに千百人中の一人で、他はみな、不自然な夭死を甘受するのほかはない。よしんば偶然にしてその寿命のみをたもちえても、健康と精神力とがこれにともなわないで、ながく困窮・憂苦の境におちいり、みずからたのしまず、世をも益することなく、碌々・昏々として日を送るほどならば、かえって夭死におよばぬではないか。
けだし、人が老いてますますさかんなのは、むろん例外で、ある齢《よわい》をすぎれば、心身ともにおとろえていくのみである。人びとの遺伝の素質や四囲の境遇の異なるのにしたがって、その年齢は一定しないが、とにかく一度、健康・知識が旺盛の絶頂に達する時代がある。換言すれば、いわゆる、「働きざかり」の時代がある。故に、道徳・知識のようなものにいたっては、ずいぶん高齢にいたるまで、すすんでやまぬのを見るのも多いが、元気・精力を要する事業にいたっては、この「働きざかり」をすぎてはほとんどダメで、いかなる強弩《きょうど》(強力な石矢)もその末は魯縞《ろこう》(うすい布)をうがちえず、壮時の麒麟も、老いてはたいてい駑馬にも劣るようになる。
力士などは、そのもっともいちじるしい例である。文学・芸術などにいたっても、不朽の傑作といわれるものは、その作家が老熟ののちよりも、かえってまだ大いに名をなしていない時代に多いのである。革命運動などのような、もっとも熱烈な信念と意気と大胆と精力とを要するの事業は、ことに少壮の士に待たねばならぬ。古来の革命は、つねに青年の手によってなされたのである。維新の革命に参加してもっとも力のあった人びとは、当時みな二十代から三十代であった。フランス革命の立者《たてもの》であるロベスピエールもダントンもエベールも、斬首台にのぼったときは、いずれも三十五、六であったと記憶する。
そして、この働きざかりのときにおいて、あるいは人道のために、あるいは事業のために、あるいは恋愛のために、あるいは意気のために、とにかく、自己の生命より重いと信ずるあるもののために、力のかぎり働いて、倒れてのちやまんとすることは、まず死に所を得たもので、その社会・人心に影響・印象するところも、けっしてあさからぬのである。これ、なんびとにとっても、満足すべきときに死ななければ、死にまさる恥があると。げんにわたくしは、その死に所をえなかったために、気の毒な生き恥をさらしている多くの人びとを見るのである。
一昨年の夏、ロシアより帰国の途中物故した長谷川二葉亭を、朝野こぞって哀悼したころであった。杉村楚人冠は、わたくしにたわむれて、「君も先年アメリカへの往きか返りかに船のなかででも死んだら、えらいもんだったがなァ」といった。彼の言は、戯言《ざれごと》である。けれども、実際わたくしとしては、その当時が死すべきときであったかも知れぬ。死に所をえなかったがために、今のわたくしは、「えらいもんだ」にならないで、「馬鹿なやつだ」「わるいやつだ」になって、生き恥をさらしている。もしこのうえ生きれば、さらに生き恥が大きくなるばかりかも知れぬ。
故に、短命なる死、不自然なる死ということは、かならずしも嫌悪し、哀弔すべきではない。もし死に、嫌悪し、哀弔すべきものがあるとすれば、それは、多くの不慮の死、覚悟なきの死、安心なき死、諸種の妄執・愛着をたちえぬことからする心中の憂悶や、病気や負傷よりする肉体の痛苦をともなう。いまやわたくしは、これらの条件以外の死をとぐべき運命をうけえたのである。
天寿をまっとうするのは、今の社会ではなんびとにとっても至難である。そして、もし満足に、幸福に、かつできうべくんば、その人の分相応――わたくしは分外のことを期待せぬ――の社会価値を有して死ぬとすれば、病死も、餓死も、凍死も、溺死も、震死も、轢死も、縊死も、負傷の死も、窒息の死も、自殺も、他殺も、なんの哀弔し、嫌忌すべき理由もないのである。
それならば、すなわち、刑死はどうか。その生理的に不自然なことにおいて、これら諸種の死となんの異なるところがあろうか。これら諸種の死よりも、さらに嫌悪し、哀弔すべき理由があるであろうか。
五
死刑は、もっともいまわしく、おそるべきものとされている。しかし、わたくしには、単に死の方法としては、病死その他の不自然と、はなはだえらぶところはない。そして、その十分な覚悟をなしうることと、肉体の苦痛をともなわぬことは、他の死にまさるともおとるところはないのではないか。
それならば、世人がそれをいまわしく、おそるべしとするのは、なに故であろぅか。いうまでもなく、死刑に処せられるのは、かならず極悪の人、重罪の人であることをしめすものだ、と信ずるが故であろう。死刑に処せられるほどの極悪・重罪の人となることは、家門のけがれ、末代の恥辱、親戚・朋友のつらよごしとして、忌みきらわれるのであろう。すなわち、その恥ずべく、忌むべく、恐るべきは、刑で死ぬということにあるのではなくて、死者その人の極悪の性質、重罪のおこないにあるのではないか。
フランス革命の梟雄《きょうゆう》マラーを一刀で刺殺して、「予は万人を救わんがために一人を殺せり」と、法廷で揚言した二十六歳の処女シャロット・コルデーは、処刑にのぞんで書をその父によせ、明白にこの意をさけんでいる。いわく「死刑台は恥辱にあらず。恥辱なるは罪悪のみ」と。
死刑が極悪・重罪の人を目的としたのは、もとよりである。したがって、古来多くの恥ずべく、忌むべく、おそるべき極悪・重罪の人が、死刑に処せられたのは、事実である。けれど、これと同時に多くのとうとぶべく、敬すべく、愛すべき善良・賢明の人が死刑に処せられたのも、事実である。そして、はなはだ尊敬すべき善人ではなくとも、またはなはだ嫌悪すべき悪人でもない多くの小人・凡夫が、あやまって時の法律にふれたために――単に一羽の鶴をころし、一頭の犬をころしたということのためにすら――死刑に処せられたのも、また事実である。要するに、刑に死する者が、かならずしも極悪の人、重罪の人のみでなかったことは、事実である。
石川五右衛門も国定忠治も、死刑となった。平井権八も鼠小僧も、死刑となった。白木屋お駒も八百屋お七も、死刑となった。ペロプスカヤもオシンスキーも、死刑と
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