も思っていない。おそらくは、彼らのなかに一人でも、永遠の命はおろか、大隈伯のように、百二十五歳まで生きられるだろうと期待し、生きたいと希望している者すらあるまい。いな、百歳・九十歳・八十歳の寿命すらも、まずはむつかしいとあきらめているのが多かろうと思う。はたしてそうならば、彼らは単純に死を恐怖して、どこまでもこれをさけようともだえる者ではない。彼らは、明白に意識せるといなとは別として、彼らの恐怖の原因は、別にあると思う。
すなわち、死ということにともなう諸種の事情である。その二、三をあげれば、(第一)天寿をまっとうして死ぬのでなく、すなわち、自然に老衰して死ぬのでなくして、病疾その他の原因から夭折し、当然うけるであろう、味わうであろう生を、うけえず、味わいえないのをおそれるのである。(第二)来世の迷信から、その妻子・眷属にわかれて、ひとり死出の山、三途《さんず》の川をさすらい行く心ぼそさをおそれるのもある。(第三)現世の歓楽・功名・権勢、さては財産をうちすてねばならぬのこり惜しさの妄執にあるのもある。(第四)その計画し、もしくは着手した事業を完成せず、中道にして廃するのを遺憾とするのもある。(第五)子孫の計がいまだならず、美田をいまだ買いえないで、その行く末を憂慮する愛着に出るのもあろう。(第六)あるいは単に臨終の苦痛を想像して、戦慄するのもあるかも知れぬ。
いちいちにかぞえきたれば、その種類はかぎりもないが、要するに、死そのものを恐怖すべきではなくて、多くは、その個々が有している迷信・貪欲・痴愚・妄執・愛着の念をはらいがたい境遇・性質等に原因するのである。故に見よ。彼らの境遇や性質が、もしひとたび改変せられて、これらの事情から解脱するか、あるいはこれらの事情を圧倒するにいたるべき他の有力なる事情が出来《しゅったい》するときには、死はなんでもなくなるのである。ただに死を恐怖しないのみでなく、あるいは恋のために、あるいは名のために、あるいは仁義のために、あるいは自由のために、さては現在の苦痛からのがれんがために、死に向かって猛進する者すらあるではないか。
死は、古《いにしえ》からいたましいもの、かなしいものとせられている。されど、これはただその親愛し、尊敬し、もしくは信頼していた人をうしなった生存者にとって、いたましく、かなしいだけである。三魂・六魂一空に帰し、
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