た瞬間|背後《うしろ》で異様な叫声がした。それは倒れていた男岩見書記――の口から洩れたのであった。その時、曲者はつと入口の方へ退却した。次の瞬間に室に居た社員がドヤ/\と支配人室の入口に駆けつけた。其時、中から「支配人がやられた! 医者だっ!」と云いながら岩見が飛び出して来たのである。そして社員達は、室へ這入ろうとする途端、真蒼な顔をした支配人と鉢合せをした。
「曲者はどうした」支配人は叫んだ。何が何だか判らないのは社員達である。岩見は支配人がやられたといって飛び出して来る。次には支配人が曲者はどうしたと飛び出して来る。兎に角も中へ入った所の社員達は三度|吃驚《びっくり》した。と云うのは、そこには呼吸《いき》も絶え/″\になった岩見が倒れて居たのである。
漸く判明した事情は、岩見に酷似した又は岩見に変装した兇漢が、正午で人気《ひとけ》少くなった社員室の間を岩見のような顔をして通りぬけ、覆面をした後、機会を待って居たのであった。そして支配人が金庫を開けるべく背をみせた瞬間、岩見に躍りかゝって、短銃《ピストル》の台尻で彼に一撃を喰わせ、次いで支配人に迫ったが、倒れた筈の岩見が呻《うめ》き声を挙げたので、遂に曲者は目的を果さずに逃げたのであった。
支配人は曲者が逃げ出すと、急いで助かった宝石を金庫の中へ投入れて、金庫を閉めるや否や、曲者を追ったのである。
多くの社員が駆付た時には、兇漢は岩見の風を装い、支配人が負傷でもしたような事を叫びながら、部屋を飛び出したので、社員一同まんまと欺《あざむ》かれ、室内に這入って再び岩見をみるや唖然《あぜん》とした次第である。曲者は遂に見失ってしまった。然し支配人は兎に角宝石に間違《まちがい》のなかったのを喜んで、騒ぎ立てる社員を一先ず制して、自分の部屋に帰り、念の為再び金庫を開いて調べてみると、支配人が大急ぎで金庫に投げ入れた宝石の一つ、時価数万円のダイヤモンドが一|顆《か》不足していた。機敏な曲者は支配人が金庫へ入れる前に、既に盗み去ったと見える。
急報に接して出張した係官も一寸|如何《どう》して宜《よ》いのか分らなかった。支配人と岩見とは厳重に調べられたが、支配人の言は全く信用するに足るもので、岩見も当時殆ど人事不省の状態にあったのであるから、これ亦|疑《うたがい》をかける余地がなかったのである。
銀座街に於ける万引嫌疑者岩見がこの白昼強盗事件の関係者である事を知った警部は、一層厳重に訊問したが、彼は何処《どこ》までも買物等をした覚えは一切ないと抗弁するのであった。しかし兎に角、現に賍品《ぞうひん》を懐《ふところ》にしていたのであるから、拘留処分に附せられる事となり、留置場に下げられた。
所が又々一事件が起った。夜半《よなか》の一時頃、留置場の番人が見廻りの際、特に奇怪なる青年として充分注意する様に云い渡されていたので、注意すると、驚くべし、岩見はいつの間にか留置場から姿を消していた。
警視庁は大騒ぎとなった。重大犯人を逃がしてはと直ちに非常線が張られた。然しその儘其夜は明けた。そうして午前十時頃|彼《かの》岩見は彼の下宿で難なく捕えられた。
刑事は無駄とは思いながらも彼の下宿に張り込んでいると、十時頃彼はボンヤリした顔をしながら帰って来たのであった。
彼の答弁は又々係官の意表に出たものであった。十一時近く、巡査が留置場に来て、一寸来いと云って連れ出し、嫌疑が晴れたから放免すると云って外へ出してくれた。夜も更けた事ではあるし、幸い懐に金もあり、且《かつ》はあまりの馬鹿々々しさに、一騒ぎ騒ごうと思って、彼はそのまゝ電車に乗って品川に至り、某楼に登《あが》って、今朝方帰って来たのだと云う。
「一体あなた方は」彼は不足そうに云った。「私を逃がしたり、捕えたり、全《まる》で私を玩具《おもちゃ》になさるじゃありませんか」
××巡査はすぐに呼び出されたが青年はこの方ですと云ったけれど、巡査の方では全然知らないと答えた。一方品川の某楼も取調べられたが、時間もすべての点も青年の云う通りであった。知能犯掛りも強力《ごうりき》犯掛りも、額を集めて協議した。その結果今回も以前の強盗事件のように、何者かゞ何にも知らない岩見を操っているのではなかろうかと云うことになって、岩見は無罪ではないかと云う説も多数になった。
然しこの不幸な青年は遂に放免せられなかった。と云うのは××巡査が自分が変装した悪漢の為めに、利用せられたのを憤り、且は自己の潔白を証明するために、岩見の下宿を調べた所、一つの奇怪な符号を書いた紙片を発見したのである。そして宝石事件は証拠不充分で無罪になったが、窃盗《せっとう》事件は、兎に角現品を所持し、店の番頭達も岩見をみて当人である事を証明したのであるから、遂に起訴せられ禁錮二ヶ月に処せられたのであった。
* * *
「私は当時一探訪記者として」松本は云った。「この事件に深く興味を持ちまして、岩見の下宿を一度調べた事がありますが、この奇怪な符号は今でも覚えて居ります。この紙片の指紋をお取りになったら一層確でしょう」
検事は彼の意見に従った。検事と警官が打合せをしている所へ、表から一人の巡査に伴われて、でっぷり肥った野卑な顔をした五十近い紳士が這入って来た。これがこの家の主人福島であった。
彼はそこに倒れている死体をみると、青くなってふるえ出した。検事は俄《にわか》に緊張して訊問を始めた。
「さようです、留守番に置いた夫婦に相違ありません」漸く気をとり直しながら彼は答えた。「それは坂田音吉と申しまして、以前私方へ出入して居りました大工です。浅草の橋場の者ですが、弟子の二三人も置き、左利きの音吉と申しまして、少しは仲間に知られていた様です。仕事は身を入れますし、誠に穏やかな男でした。所が今度の震災で、十を頭《かしら》に四人あった子供のうち、上三人が行方不明となり、一番下の二つになる児だけは母親がしっかり抱いて逃げたので助かったのです。本人の落胆は気の毒な程でした。私の方では家族一同を一旦郷里の方へ避難いたさせましたので、――尤も私だけ取引上の事でそう行き切りと云う訳に参りませんから、こちらに残り時々郷里の方へ参りました。――丁度幸いこの夫婦を留守番に入れたのです。私は昨日は夕刻から郷里の方へ出掛けまして、今朝程又出て来たのです」
「昨日二人は、別に変った様子はありませんでしたか?」
「別に変った様子はありませんでした」
「近頃坂田の所へ客があったような事はなかったですか?」
「ありません」
「あなたは何か人から恨みを受けている様な事はありませんか?」
「恨《うらみ》を受けているような事はないと存じます」こう云いながら、彼は側に立っていた青木を見つけて、「いや実は近頃この町内の方からは可成り憎まれて居ります、それは私が町内の夜警に出ないと云う事からで、そこに御出でになる青木さんなどは、最も御立腹で私の宅などは焼き払うがよいとまで申されましたそうです」
検事はチラと青木の方を向いた。
「怪《け》しからぬ」青木はもう真赤になって口|籠《ごも》りながら、「わ、我輩が放火《つけび》でもしたと云われるのか」
「いやそう云う訳じゃないのです」彼は冷然と答えた。「只《たゞ》あなたがそんな事を云われたと申上げた迄です」
「青木さん、あなたはそういう事を云われましたか?」
「えゝ、それは一時の激昂で云った事はあります」
「あなたが火事を発見なすったのは何時でしたかね」
「それはさっき申上げた通り、二時十分|過《すぎ》位です」
「火の廻り具合では、どうしても発火後二三十分経過したものらしい。所があなたはその前に二時十分前に、この家の庭を通って居られる、そうでしたね」
「その通りです」青木は不安らしく答えた。「然し真逆《まさか》私が――」
「いや今は事実の調査をしているのです」検事は厳として云った。今度は福島に向って、「火災保険につけてありますか」
「はい、家屋が一万五千円、動産が七千円、合計二万二千円契約があります」
「家財はそのまゝ置いてありましたか」
「貨車の便がありませんから、ほんの身の廻りのものだけを郷里に持ち帰り、あとは皆置いてありました」
「殺人について、何も心当りはありませんか?」
「さあ、何も覚えがありません」
その時一人の刑事が、検事のそばへきて何か囁《さゝや》いた。
「松本さん」検事は青年記者を呼んだ。「死体解剖其の他の結果が判ったそうです。これは係官以外に知らすべき事ではないが、あなたの先刻《さっき》からの有益なる御助力を謝する意味に於て御話ししますから一寸こちらへ御出下さい」
検事と松本は室の隅の方へ行って、低声《ひくごえ》で話し出した。私は最も近くに席を占めて居たので、途切れ途切れにその話を聞いた。
「え! 塩酸加里の中毒、はてな」松本が云うのが聞えた。
話の様子では机の上にあった菓子折の中には最中《もなか》が入って居り、その中には少量のモルヒネを含んでいたのである。菓子折は当日午後二時頃渋谷道玄坂の青木堂と云う菓子屋で求めたもので、買った人間の風采は岩見に酷似していた。然し最中は手をつけて居ないで、子供は塩酸加里の中毒で倒れているのであった。
やがて検事は元の席に戻って再び訊問を始めた。
「青木さんあなたが、夜警の交替時間に間もないのに、家に帰られた理由が承りたい」
「いやそれは」青木は答えた。「別に何でもない事でとりたてゝ云う程の理由はないのです」
「いや、その理由を申されないと、あなたにとって不利になりますぞ」
大佐は黙って答えない。私は心配でならなかった。
「先刻の御話では」福島が云った。「青木さんは火事の時刻に私の宅《たく》に御出になったのですか?」
「そんな事は貴下《あなた》が聞かんでもよろしい」検事が代って答えた。この時、松本が隣室から何か大部の書物を抱えて出て来た。
「やあ、福島さん、あなたは以前薬学をおやりになったそうで、結構な本をお持ちですな、私も以前少しその道をやりましたが、山下さんの薬局法註解は好い本ですな。私はもう殆ど忘れていましたが、この本をみて思い出しましたよ。それも塩剥《えんぼつ》の中毒と云うのは珍らしいと思いまして」松本は余り唐突《だしぬけ》なので些《いさゝ》か面喰っている検事に向って云った。「山下さんの薬局法註解を見たのですが、塩剥の註解の所に量多きときは死を致すと書いてありましたから、小児《こども》の事ではあり中毒したのでしょう。所が」彼は書物を開いたまゝ検事に示しながら「こう云う発見をしましたよ」
「何ですか之は?」検事は不審そうに指《ゆびさ》された個所に目をやるとそこには、「クロール酸カリウム。二酸化マンガン、酸化銅等ノ如キ酸化金属ヲ混ジテ熱スレバ已《スデ》ニ二百六十度|乃至《ナイシ》二百七十度ニ在リテ酸素ヲ放出ス、是《コレ》本品ノ高温ニ於テ最モ強劇ノ酸化薬タル所以《ユエン》ナリ………………又本品ニ二倍量[#「二倍量」に傍点]ノ庶糖ヲ混和シ此ノ混和物ニ強硫酸ノ一滴ヲ点ズルトキハ已ニ発火ス云々」と書かれてあった。
「私達が最初に火を発見した時、砂糖の焦げる臭を嗅だのです。所で現場を調べてみると、大きな硝子製の砂糖壷があって壊《こわ》れた底に真黒に炭がついている。つまり私の考えでは、この塩酸加里が硫酸によって分解せられて、過酸化塩素を生ずる性質を利用したのではないかと思うのです」
「成程」検事は初めてうなずいた。「それでは加害者が放火の目的で砂糖と塩酸加里を混合し、硫酸を滴加したのですね」
「いや、私は多分加害者ではないと思うのです。何故なら殺人と放火の間には可成りの時間の距離がありますし、それにこの薬品の調合は恐らく余程以前、多分夕刻位になされたものと思われます」
「と云うと?」
「つまり小児《こども》が死んだのは、母親が多分牛乳か何かに、砂糖を入れた。所がその砂糖の中には既に塩酸加里が入って居たのでしょう。その為めに小児は中毒したのです」
「ふむ」検事はうなずいた。
「これで私は本事
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