こわれたのじゃないのですか」私は彼にある優越を感じながら云った。「それとも火の出たのと何か関係があるのですか?」
「寒暖計位で、こんなに水銀は残りませんよ」彼は答えた。「火事に関係があるのかどうかは判りません」
 そうだ、分る筈がないのだ。私はあまりのこの青年の活動に、ついこの人が秘密の鍵を見出したかの様に思ったのだ。
 表の方が騒々しくなって来た。大勢の人がドヤ/\と這入って来た。検事と警官の一行である。
 私と青年記者とは、警官の一人に、当夜の夜警であって、火事の最初の発見者たる青木の叫声で駆けつけたものであると答えた。二人は暫く待って居る様に云われた。
 男の方は年齢四十歳位で、余程格闘したらしい形跡がある。鋭利な刃物――それは現場に遺棄せられた皮|剥《む》き用の小形庖丁に相違なかった。――で左肺を只《たゞ》一突にやられている。女の方は三十二三で床《とこ》から乗り出して子供を抱えようとした所を後方《うしろ》からグサッと一|刺《さし》に之も左肺を貫かれて死んでいる。茶の間と座敷――三人の寝て居た部屋――の境の襖は包丁で滅茶滅茶に切りきざまれていた。枕許の机の上に菓子折と盆があった。盆の中に、寝がけに喰べたらしい林檎《りんご》の皮があった。
 その外に変ったものは例の床《ゆか》の板が上げられている事と、怪しい紙片《かみきれ》が残されている事である。
 訊問が始まった。真先には青木である。
「夜警で交替してからさよう二時を二十分も過ぎていましたかな、宅の方へ帰りますに」青木は云った。「表を廻れば少し遠くなりますから、福島の庭を脱けて私の裏口から入ろうとしますと、台所の天井から赤い火が見えましたのじゃ。それで大声を挙げたのです」
「庭の木戸は開いていたのですか」検事は訊いた。
「夜警の時に、時々庭の中へ入りますでな、木戸は開けてある様にしてあるのです」
「火を見付ける前に見廻りをしたのは何時頃ですか?」
「二時少し前でしたかな、松本君」青木は松本を振り返った。
「そうですね。見廻りがすんで、小屋に帰った時が五分前ですから、この家の前であなたに別れたのは十分前位でしょう」
「この家の前で別れたと云うのはどう云う訳です?」
「いや一緒に見廻りましてな、この前で私は一寸宅へ寄りましたので、松本さんだけが、小屋に帰られたのです」
「矢張庭をぬけましたか?」
「そうです」
「その時は異状なかったのですね?」
「ありませんでした」
「何の用で帰ったのですか?」
「大した用ではありません」
 その時に警官が検事の前に来た。検死の結果殺害が凡そ午後十時頃行われた事が判ったのである。小児《こども》の死体は外部に何の異状もないので解剖に附せられる事となった。同時に菓子折も鑑定課に廻わされた。
 時間の関係から、殺人と火事とが連絡があるかないかと云う事が刑事間の論点になったらしい。
 兎に角、ある兇漢が男の方と格闘の上、枕許にあった皮むき庖丁で刺殺し、子供を連れて逃げ様とする女を後《うしろ》から殺した。それから死体を隠蔽《いんべい》しようと思って床板を上げたが果さなかった。襖を切ったのは、薪《まき》にして死体を燃す積ではなかったろうか。
「然し、厳重に夜警をしている中を、どうしてやって来て、どうして逃げたかなあ?」刑事の一人が云った。
「そりゃ訳もない事です」松本が口を出した。「夜警を始めるのは十時からですから、それ以前に忍び込めるし、火事の騒ぎの時に大勢に紛れて逃げる事も出来ましょうし、或は巡回と次の巡回の間にだって逃げられます」
「君は一体なんだね?」刑事は癪《しゃく》に触ったらしく、「大そう知ったか振りをするが、何か加害者の逃亡する所でもみたのかね?」
「見りゃ捕えますよ」松本は答えた。
「ふん」刑事は益々癪に触ったらしく、「生意気な事を云わずに引込んでろ」
「引込んでいる訳には行きませんよ」松本は平然として答えた。「まだ検事さんに申上げなければならん事がありますから」
「わしに云う事とは何かね?」検事が口を出した。
「刑事さん達は少し誤解してなさるようです。私には子供の方の事は判りませんが、あとの二人は同一の人間に殺されたのではありませんよ。女を殺したものと、男を殺した奴とは違いますよ」
「何だと?」検事は声を大きくした。「どうだって?」
「二人を殺した奴は別だと云うのです。二人とも同じ兇器でやられています。そうして二人とも確に左肺をやられています。然し一人は前からで、一人は後《うしろ》からです。後《うしろ》から左肺を刺すのは普通では一寸むずかしいじゃありませんか。それに襖の切口をごらんなさい。どれも一文字に引いてあるのは、左から右に通っています。一体刃物を突き込んだ所は大きく穴が穿《あ》き、引くに従って薄くなりますから、よく分る筈です。それからあなた方は」刑事の方を向いて、「林檎の皮を御覧でしたか、皮は可成りつながっていましたが、左巻きですよ。林檎を剥いたのが左利き、襖を突いたのが左利き、女を刺したのが左利き、然し男を殺したのは右利きです」
 検事も刑事も私も、いや満座の人が、半ば茫然として、この青年がさして得意らしくもなく、説きたてるのに傾聴した。
「成程」やがて沈黙は検事によって破られた。
「つまり女はそこに死んでいる男に刺されたのだね?」
「そうです」青年は簡単に答えた。
「所で男の方は自分の持っている武器で、何者かに刺されたと云う訳だね?」
「何者かと云うよりは」青年は云った。「多分あの男と云った方が好いでしょう」
 満座はまた驚かされた。誰もが黙って青年を見詰めた。
「警部さん、あなたはその紙片《かみきれ》に見覚えはありませんか?」
「そうだ」警部は、暫《しば》し考えていてから、呻《うな》るように云った。「そうだ、そう云われて思い出した。之は確にあの男の事件の時に……」
「そうです」青年は云った。「私も当時つまらない探訪記者として、事件に関係していましたが、この紙片はあの『謎の男の万引事件』として知られている、岩見慶二の室で見た事があります」
 岩見と聞くと私も驚いた。岩見! 岩見! あの男がまたこの事件に関係しているのか。私も当時仰々しい表題で書き立てられた岩見事件には少からず興味を覚えて熟読したものである。成る程、それで松本は先刻《さっき》手帳に控えた符号と引較べていたのだ!
 私は当時の新聞に掲げられた話|其儘《そのまゝ》を読者にお伝えしよう。
 この会社員岩見慶二と名乗る謎の青年の語る所は恁《こ》うであった。
 昨年の六月末の或る晴れた日の午後である。彼《かの》岩見は、白の縞ズボンに、黒のアルパカの上衣、麦藁《むぎわら》帽に白靴、ネクタイは無論蝶結びのそれで、丁度当時のどの若い会社員もした様な一分の隙もない服装で、揚々としてふくらんだ胸、そこには本月分の俸給の袋と、もう一封それは今年の夏は多分駄目とあきらめていた思いがけないボーナスの入った袋をしっかり収めて、別に待つ人もない独り者の気易さは、洋服屋の月賦、下宿の女将《おかみ》の立替とを差引いて、尚残るであろう所の金を勘定して、実際は買わないが買いたい処のものを思い浮べながら、一足々々をしっかり踏んで銀座街の飾窓《ショーウィンド》から飾窓へと歩いていたのである。
 一体散歩に金はいらぬ筈である。然し懐《ふところ》に費《つか》っても差支えのない金を持って、決して買いはしないが、買いたいものゝ飾窓を覗き込む「よさ[#「よさ」に傍点]」は一寸経験のない人には判らない事である。岩見も今この「よさ[#「よさ」に傍点]」に浸って居るのであった。
 彼はとある洋品店の前に足を止めた。その時にもし彼を機敏に観察して居るものがあったら、彼が上衣の袖をそっと引張ったのに気がついたであろう。それは彼がこの窓の中に同僚の誰彼が持っていて、かね/″\欲しいと思っていた、黄金製カフス釦《ボタン》を見入った時に、思わず自分の貧弱なカフス釦が恥しくなって、無意識にかくしたのである。
 思い切ってその窓を離れた彼は、更に新橋の方へ歩みを進めて、今度は大きな時計店の前に佇《たゝず》んだ。彼は又金側時計が欲しいと思った。然し無論買うのではない。それから彼は稍《やゝ》足を早めて、途々《みち/\》「買わない買物」の事を考えながら、新橋を渡り玉木屋の角から右に曲って二丁|許《ばか》り行くと、とある横町を左に入ったのであった。その時、彼はふと[#「ふと」に傍点]右手を上衣のポケットに入れた。何《どう》やら覚えのない小さなものが手に触れたので、ハテナと思いながら取り出してみると、小さな紙包である。急いで開けると、あ! 先刻《さっき》欲しいと思った黄金製カフス釦《ボタン》じゃないか。彼は眼をこすった。その途端左のポケットにも何《どう》やら重味を感じた。左のポケットから出たのは、金側時計であった。彼は何が何やら判らなくなった。恰度《ちょうど》お伽噺《とぎばなし》の中にある様に、魔法使いのお蔭で何でも欲しいと思うものが、立所《たちどころ》に湧いて出ると云うような趣だった。然し彼はいつまでも茫然としていられなかった。彼の時計を持って居る手は、後から出て来た頑丈な手にしっかり握られた。彼の後には大きな見知らぬ男が立っていたのである。彼はこの見知らぬ男と共に先刻《さっき》の洋品店に行くべく余儀なくせられた。彼が何が何やらさっぱり判らない中に、店の番頭達はこの方に相違ありませんが、別に何も紛失したものはないと答えた。次に時計店に連れて行かれた時分に、岩見も漸く少し宛《ずつ》判って来た様な気がした。時計店の番頭は彼をみるや否や、この野郎に違いありませんと云った。刑事――この大男は無論刑事であった。――は早速岩見の身体検査をはじめて、腰のポケットから一つの指輪を取り出した。それは実に見事に光っていた。
「余り見かけない奴だが」刑事は岩見に向って云った。「素人《しろうと》じゃあるまい」
「冗談云っちゃいけません」これは大変になって来たと岩見は懸命に云い出した。「何が何だかさっぱり判りません。一体どうしたのです」
「オイ/\、好い加減にしないか」刑事は云った。「お前はカフス釦を買ったり、時計を買ったり、それはいゝさ、ついでにダイヤ入指輪を一寸失敬したのは困るね、然しいゝ腕だなあ」
「私は時計も指輪も買った覚えはありません」彼は弁解した。「第一金を調べて下されば判ります」
 彼が自分の潔白を証明しようとして、内ポケットから月給の袋とボーナスの袋を出したが、彼は顔色を変えた。封が切れていた。
 様子をみて居た刑事は、少し判らなくなって来たので声を和《やわら》げて、
「兎に角庁まで来給え」と云った。
 警視庁へゆくと岩見は悪びれずに自分に覚えのない事を述べた。青年の語る所を聞き終って、警部は頭《かしら》を傾けた。青年の言《げん》が事実とすれば、実に妙な事件である。この時ふと警部の頭に浮んだ事があった。それは岩見青年が××ビルディング内東洋宝石商会の社員であると云うのを聞いて、端《はし》なくも二三ヶ月|前《ぜん》の白昼強盗事件が思い出されたのである。早速岩見を訊問してみると、驚いた事には彼は事件に最も関係の深い一人であることが判った。
 白昼強盗事件と云うのはこう云う事件であった。
 花ももう二三日で見頃と云う四月の初旬《はじめ》であった。どんよりと曇った日の正午、××ビルディング十階の東洋宝石商会の支配人室で、支配人は当日支店から到着したダイヤモンド数|顆《か》をしまおうとして、金庫を開けにかゝった。支配人室と云うのは、社員の全部が事務をとっている長方形の大きな室《へや》の一部が凹間《アルコープ》になっていて、その室に通ずる方にしか入口はないのであった。そして入口の近くに書記の岩見が控えているのである。支配人が金庫の方へ向う途端に、何だか物音を聞いた様なので、振りかえると、覆面の男がピストルを突きつけて立って居た。足許には一人の男が倒れている。棒の様になった支配人を睨《にら》みながら、曲者は次第に近寄って、机の上の宝石を掴もうとし
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