の時は異状なかったのですね?」
「ありませんでした」
「何の用で帰ったのですか?」
「大した用ではありません」
 その時に警官が検事の前に来た。検死の結果殺害が凡そ午後十時頃行われた事が判ったのである。小児《こども》の死体は外部に何の異状もないので解剖に附せられる事となった。同時に菓子折も鑑定課に廻わされた。
 時間の関係から、殺人と火事とが連絡があるかないかと云う事が刑事間の論点になったらしい。
 兎に角、ある兇漢が男の方と格闘の上、枕許にあった皮むき庖丁で刺殺し、子供を連れて逃げ様とする女を後《うしろ》から殺した。それから死体を隠蔽《いんべい》しようと思って床板を上げたが果さなかった。襖を切ったのは、薪《まき》にして死体を燃す積ではなかったろうか。
「然し、厳重に夜警をしている中を、どうしてやって来て、どうして逃げたかなあ?」刑事の一人が云った。
「そりゃ訳もない事です」松本が口を出した。「夜警を始めるのは十時からですから、それ以前に忍び込めるし、火事の騒ぎの時に大勢に紛れて逃げる事も出来ましょうし、或は巡回と次の巡回の間にだって逃げられます」
「君は一体なんだね?」刑事は癪《しゃく》に触ったらしく、「大そう知ったか振りをするが、何か加害者の逃亡する所でもみたのかね?」
「見りゃ捕えますよ」松本は答えた。
「ふん」刑事は益々癪に触ったらしく、「生意気な事を云わずに引込んでろ」
「引込んでいる訳には行きませんよ」松本は平然として答えた。「まだ検事さんに申上げなければならん事がありますから」
「わしに云う事とは何かね?」検事が口を出した。
「刑事さん達は少し誤解してなさるようです。私には子供の方の事は判りませんが、あとの二人は同一の人間に殺されたのではありませんよ。女を殺したものと、男を殺した奴とは違いますよ」
「何だと?」検事は声を大きくした。「どうだって?」
「二人を殺した奴は別だと云うのです。二人とも同じ兇器でやられています。そうして二人とも確に左肺をやられています。然し一人は前からで、一人は後《うしろ》からです。後《うしろ》から左肺を刺すのは普通では一寸むずかしいじゃありませんか。それに襖の切口をごらんなさい。どれも一文字に引いてあるのは、左から右に通っています。一体刃物を突き込んだ所は大きく穴が穿《あ》き、引くに従って薄くなりますから、よく分る筈です。それからあなた方は」刑事の方を向いて、「林檎の皮を御覧でしたか、皮は可成りつながっていましたが、左巻きですよ。林檎を剥いたのが左利き、襖を突いたのが左利き、女を刺したのが左利き、然し男を殺したのは右利きです」
 検事も刑事も私も、いや満座の人が、半ば茫然として、この青年がさして得意らしくもなく、説きたてるのに傾聴した。
「成程」やがて沈黙は検事によって破られた。
「つまり女はそこに死んでいる男に刺されたのだね?」
「そうです」青年は簡単に答えた。
「所で男の方は自分の持っている武器で、何者かに刺されたと云う訳だね?」
「何者かと云うよりは」青年は云った。「多分あの男と云った方が好いでしょう」
 満座はまた驚かされた。誰もが黙って青年を見詰めた。
「警部さん、あなたはその紙片《かみきれ》に見覚えはありませんか?」
「そうだ」警部は、暫《しば》し考えていてから、呻《うな》るように云った。「そうだ、そう云われて思い出した。之は確にあの男の事件の時に……」
「そうです」青年は云った。「私も当時つまらない探訪記者として、事件に関係していましたが、この紙片はあの『謎の男の万引事件』として知られている、岩見慶二の室で見た事があります」
 岩見と聞くと私も驚いた。岩見! 岩見! あの男がまたこの事件に関係しているのか。私も当時仰々しい表題で書き立てられた岩見事件には少からず興味を覚えて熟読したものである。成る程、それで松本は先刻《さっき》手帳に控えた符号と引較べていたのだ!
 私は当時の新聞に掲げられた話|其儘《そのまゝ》を読者にお伝えしよう。
 この会社員岩見慶二と名乗る謎の青年の語る所は恁《こ》うであった。
 昨年の六月末の或る晴れた日の午後である。彼《かの》岩見は、白の縞ズボンに、黒のアルパカの上衣、麦藁《むぎわら》帽に白靴、ネクタイは無論蝶結びのそれで、丁度当時のどの若い会社員もした様な一分の隙もない服装で、揚々としてふくらんだ胸、そこには本月分の俸給の袋と、もう一封それは今年の夏は多分駄目とあきらめていた思いがけないボーナスの入った袋をしっかり収めて、別に待つ人もない独り者の気易さは、洋服屋の月賦、下宿の女将《おかみ》の立替とを差引いて、尚残るであろう所の金を勘定して、実際は買わないが買いたい処のものを思い浮べながら、一足々々をしっかり踏んで銀座街の飾窓《ショーウィンド》から
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