飾窓へと歩いていたのである。
 一体散歩に金はいらぬ筈である。然し懐《ふところ》に費《つか》っても差支えのない金を持って、決して買いはしないが、買いたいものゝ飾窓を覗き込む「よさ[#「よさ」に傍点]」は一寸経験のない人には判らない事である。岩見も今この「よさ[#「よさ」に傍点]」に浸って居るのであった。
 彼はとある洋品店の前に足を止めた。その時にもし彼を機敏に観察して居るものがあったら、彼が上衣の袖をそっと引張ったのに気がついたであろう。それは彼がこの窓の中に同僚の誰彼が持っていて、かね/″\欲しいと思っていた、黄金製カフス釦《ボタン》を見入った時に、思わず自分の貧弱なカフス釦が恥しくなって、無意識にかくしたのである。
 思い切ってその窓を離れた彼は、更に新橋の方へ歩みを進めて、今度は大きな時計店の前に佇《たゝず》んだ。彼は又金側時計が欲しいと思った。然し無論買うのではない。それから彼は稍《やゝ》足を早めて、途々《みち/\》「買わない買物」の事を考えながら、新橋を渡り玉木屋の角から右に曲って二丁|許《ばか》り行くと、とある横町を左に入ったのであった。その時、彼はふと[#「ふと」に傍点]右手を上衣のポケットに入れた。何《どう》やら覚えのない小さなものが手に触れたので、ハテナと思いながら取り出してみると、小さな紙包である。急いで開けると、あ! 先刻《さっき》欲しいと思った黄金製カフス釦《ボタン》じゃないか。彼は眼をこすった。その途端左のポケットにも何《どう》やら重味を感じた。左のポケットから出たのは、金側時計であった。彼は何が何やら判らなくなった。恰度《ちょうど》お伽噺《とぎばなし》の中にある様に、魔法使いのお蔭で何でも欲しいと思うものが、立所《たちどころ》に湧いて出ると云うような趣だった。然し彼はいつまでも茫然としていられなかった。彼の時計を持って居る手は、後から出て来た頑丈な手にしっかり握られた。彼の後には大きな見知らぬ男が立っていたのである。彼はこの見知らぬ男と共に先刻《さっき》の洋品店に行くべく余儀なくせられた。彼が何が何やらさっぱり判らない中に、店の番頭達はこの方に相違ありませんが、別に何も紛失したものはないと答えた。次に時計店に連れて行かれた時分に、岩見も漸く少し宛《ずつ》判って来た様な気がした。時計店の番頭は彼をみるや否や、この野郎に違いありませんと云っ
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