からあなた方は」刑事の方を向いて、「林檎の皮を御覧でしたか、皮は可成りつながっていましたが、左巻きですよ。林檎を剥いたのが左利き、襖を突いたのが左利き、女を刺したのが左利き、然し男を殺したのは右利きです」
 検事も刑事も私も、いや満座の人が、半ば茫然として、この青年がさして得意らしくもなく、説きたてるのに傾聴した。
「成程」やがて沈黙は検事によって破られた。
「つまり女はそこに死んでいる男に刺されたのだね?」
「そうです」青年は簡単に答えた。
「所で男の方は自分の持っている武器で、何者かに刺されたと云う訳だね?」
「何者かと云うよりは」青年は云った。「多分あの男と云った方が好いでしょう」
 満座はまた驚かされた。誰もが黙って青年を見詰めた。
「警部さん、あなたはその紙片《かみきれ》に見覚えはありませんか?」
「そうだ」警部は、暫《しば》し考えていてから、呻《うな》るように云った。「そうだ、そう云われて思い出した。之は確にあの男の事件の時に……」
「そうです」青年は云った。「私も当時つまらない探訪記者として、事件に関係していましたが、この紙片はあの『謎の男の万引事件』として知られている、岩見慶二の室で見た事があります」
 岩見と聞くと私も驚いた。岩見! 岩見! あの男がまたこの事件に関係しているのか。私も当時仰々しい表題で書き立てられた岩見事件には少からず興味を覚えて熟読したものである。成る程、それで松本は先刻《さっき》手帳に控えた符号と引較べていたのだ!
 私は当時の新聞に掲げられた話|其儘《そのまゝ》を読者にお伝えしよう。
 この会社員岩見慶二と名乗る謎の青年の語る所は恁《こ》うであった。
 昨年の六月末の或る晴れた日の午後である。彼《かの》岩見は、白の縞ズボンに、黒のアルパカの上衣、麦藁《むぎわら》帽に白靴、ネクタイは無論蝶結びのそれで、丁度当時のどの若い会社員もした様な一分の隙もない服装で、揚々としてふくらんだ胸、そこには本月分の俸給の袋と、もう一封それは今年の夏は多分駄目とあきらめていた思いがけないボーナスの入った袋をしっかり収めて、別に待つ人もない独り者の気易さは、洋服屋の月賦、下宿の女将《おかみ》の立替とを差引いて、尚残るであろう所の金を勘定して、実際は買わないが買いたい処のものを思い浮べながら、一足々々をしっかり踏んで銀座街の飾窓《ショーウィンド》から
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