た。
「何分守衛が発見してすぐ訴えないものだから、指紋は勿論《もちろん》、何の証拠になるようなものもない」路々友は語った。「守衛は大丈夫らしいね」
 神保町《じんぼうちょう》の停留場で我々は降りた。その辺の迷路にも似た小路《こじ》を、あちこちと二三丁歩いて、ある建物の前に来た時に、彼は立止って突然《いきなり》その呼鈴《ベル》を押した。私は驚いて表札を見ると花野茂としてあった。取次が出ると橋本は花野さんに御目にかかりたいと云った。
「先生は今御旅行中です」とブッキラ棒に取次は答えた。
「私もそう新聞で承知いたしました」友は云った。
「併し是非御願いいたしたい事がありますので、迷って居りますと、今朝電車で偶然久しい前外国で御目にかかった事のある一寸御名前を忘れましたが、その方がこちらと御知合だそうで、先生は御在宅の筈《はず》だと教えて下さいましたので」
「ハテな。誰だろうな」と取次は書生部屋の仲間に振り向いて云った。
「外国と云えば田村《たむら》さんじゃないかね。併しあの人は先生の留守は知っている筈だがね」
「脊《せ》の高い一寸外国人のような方ですが」
「じゃ田村さんだ。どうしてそんな事を云ったろう」
「田村さんは只今どちらでしょう」すかさず橋本は聞いた。
「駿河台《するがだい》の保命館《ほめいかん》に御出でしょうと思います」書生は迂散《うさん》くさそうに答えた。
「どうも有難うございました」礼を云って友は外へ出た。足は自《おのず》と駿河台に向う。
 最近に増築した保命館は此辺切っての旅館であった。幸か不幸か田村君は在宅であった。
「マッカレーさんと仰有る人から頼まれましたのですが」と友は刺を通じた。我々は彼の部屋に通された。橋本が人相書に依って訪ね出した所の、その人相の所有者は悠然として我々の前に現われたのである。
「早速ですが田村さん。私は実はこう云う職業のものですが」と再び名刺を渡しながら、「何事も隠さず云って頂きたい。そうでないと我々は貴君を氏名詐称と、若《も》しかすると、詐欺取材で告発しなければなりません」
 田村氏は一度は青くなり一度は怒ったが、やがて観念した如く話し出したのは次の如くであった。彼はマッカレーに近づいて何か一儲けをしようとして居ると、マッカレーが真珠塔が欲しいと云うので之幸《これさいわい》と、模造品を商会に造らせ、売り込もうとしたがマッカレー
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