回答を待ちかねていたのだと思われる。
 だが、まあこの回答は何と云う皮肉だ!
 支倉が窮余の極、漸く一方に遁路《にげみち》を開いた苦肉の策だった電車未開通説は物の美事に打ちのめされたのだ。即ち支倉が貞子を連れ出したと云う日は大正二年九月二十六日で、電車の開通は同年同月十八日! 僅に八日以前に開通しているのだ。之が皮肉でなくてなんであろうか。
 仮令《たとえ》八日でも既に電車が通じていたからには、支倉が電車はなかった筈だと嘯《うそぶ》いたのは全然無効だ。いやそればかりでなく反て判官の心証に悪い影響を与えたかも知れぬ。
 六月一日の第四回審問に古我判事はこう云って支倉を極めつけている。
 問 電気局に問合すと古川橋より目黒停車場間の電車は大正二年九月十八日開通と云う回答があったがどうじゃ。
 この問には支倉も甚だ苦しい答弁をしている。
 答 それでは仕方がありません。私は電車に乗らないのですから、電車は開通していないと思いました。
 支倉はこの事が余程意外だったと見え、越えて六月四日に差出した、半紙五枚に細々と書き連らねた第二回の上願書の冒頭にこう書いている。
「其の当時開通しあらざりし電
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