奴だな」
だが、いつまでも感心している訳にはいかない。
「渡辺君、僕はこのまゝ帰って、司法主任におめ/\と取逃がしましたとは報告出来ないよ」
石子は悄気切って云った。
「僕だってそうだよ」
渡辺は半ばは自分に云うように、半ばは石子を慰めるように云った。
「君と二人がゝりで逃がしましたとは云えないよ。第一僕の見はり方が悪かったんだから」
二人は相談をした。そうして大島司法主任には彼が不在だったと報告して、二人で共力して遅くとも三日の中に彼を引き捕えてやろうと誓った。
いかに大胆な彼でも白昼堂々と帰宅する事はあるまい。必ず深夜人知れず帰宅するに違いない。咄嗟《とっさ》の際だったから、彼に充分の用意がないから、今晩にも帰って来るかも知れぬ。石子、渡辺の両刑事は其夜人の寝静まった頃から支倉の家を見張る事にした。
寒風に晒《さら》されながら冬の夜更けを、人知れず暗闇に佇んでいるのは決して楽な仕事ではなかった。両刑事は息も凍るような寒さに、互に励まし合いながら、徹宵一睡もしないで、猫の子一匹も見逃すまいと、支倉の家を睨んでいた。
其夜は何事もなく明けた。次の夜も其次の夜も三晩と云うものは更に家を出入するものがなかった。
「ねえ、石子君、つく/″\嫌になるね」
三晩目に渡辺刑事が述懐した。
「何、三晩やそこいらの徹夜位はなんでもないさ。僕は苦労を云うのじゃない。三晩も寝ないで他人の家を恰《まる》で犬のように覗っていると云う事が果して意義のある事だろうか。探偵なんて商売はつく/″\嫌になって終《しま》う」
「馬鹿な事を云っちゃいけないぜ」
凍えた両手を一生懸命に擦り合せながら石子刑事が答えた。
「僕達は何も私利私慾の為にやっているのではないぜ。公益の為にやっているのだ。僕達は社会の安寧を保つ為に貴い犠牲を払っているのだぜ」
「貴い犠牲か? だが世間の奴等はそうは云わないからな。恰《まる》で僕達が愉快で人の裏面を発《あば》くように思っているからな」
「馬鹿な、僕達のような仕事をするものがなかったらどうするのだ、そんな事を云う奴には云わして置くより仕方がないさ」
石子刑事は吐き出すように云ったが、その実、彼も三晩の徹夜の効果のないのには、すっかり気を滅入らしていた。
四日目の朝、石子刑事は署内自分宛書留速達の分厚い封筒を受取った。それは思いがけなく逃走中の支倉喜平から来たもので、巻紙に肉太の達筆で長々と認《したゝ》めてあった。何となく圧迫されるような気持で封を切った石子刑事は、忽ち両手をブル/\顫《ふる》わせて、血の気を失った唇をきっと噛みしめた。
石子刑事に宛てた支倉の手紙には次のような事が書かれていた。
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拝啓
過日|態※[#二の字点、1−2−22]《わざ/\》御来訪下され候節は失礼仕候。一旦御同行申すべきよう申し候え共、つら/\考うるに警察署の取調べと申すものは意外に長引くものにて、小生目下|鳥渡《ちょっと》手放し難き用件を控えおり、長く署内に留め置かれ候ようにては迷惑此上なし。依って右用件済み次第当方より出頭仕るべく候間左様御承知下され度候。尚一筆書き加え候が、多分は聖書の件と存じ候が、あれは尾島書記より貰い受けしものにして、決して盗み出せしものに非ず、右御誤解なきよう願上候。呉々も小生居所についての御詮議は御無用に願度、卿等の如き弱輩の徒には到底尋ね出ださる余に非ず、必ず当方より名乗って出《い》ずべきにより、無用の骨折はお止めあるよう忠告仕候。
[#ここで字下げ終わり]
石子刑事は歯噛みをして口惜しがった。
手紙を見せられた渡辺刑事も激怒した。
「馬鹿にしていやがる」
稍《やゝ》あって石子は腹立たしそうに云った。
「聖書の事などは云いやしないのだろう」
渡辺刑事が聞いた。
「無論云いやしない」
石子は余憤の未だ静まらない形で、荒々しく答えた。
「ではきゃつ[#「きゃつ」に傍点]脛《すね》に持つ疵で早くも悟ったのだね。それにしても聞きもしないのにこんな事を書くのは白状したようなものだ」
渡辺は鳥渡息をついで、
「尾島書記と云うのに会ったかい」
「会ったさ、然し貰ったと云うのは嘘だよ。会社の方で公の問題にしたくないと云う考えがあるので、それにつけ込んでこんな事を云っているのだ」
石子は一気にそう云ったが、やがて調子を変えて、
「そんな問題は後廻しだ。一刻も早くきゃつを捕えなければならん」
「無論だとも」
渡辺は言下に答えた。
その日午後に又もや支倉から石子刑事に宛て一通の書留速達が舞い込んで来た。それには家の廻りなどをいくら警戒しても無駄な事だと云った意味が、前の手紙よりも一層愚弄的に書いてあった。
「畜生!」
石子は心の中で叫んだ。
「おのれ、今に見ろ、然し俺は冷静
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