話でしょう。感謝しませんか」
仁科少佐はきっと唇を噛みました。ああ、何たる卑劣漢! 少佐が袋の鼠で、どんな事があっても逃げ出せないと知って、わざと弄《なぶ》る為に、秘密書類のありかを毒々しく云うのです。
「有難う。シムソンさん」少佐は眼を怒りに燃えながらも、言葉は優しく云いました。「それを聞けば私も安心して地下室の牢に行けます。あなたはそんな事を口走ったのを、きっと後悔する時が来るでしょう」
「後悔する? アハハハハ、それはあなたの負惜しみです。あなた、その事を誰に伝えられますか。ハハハハハ。私、決して後悔する事ありません」
ソーントンは二人の会話がよく分らないらしく、シムソンの言葉が終ると、直ぐピストルを少佐に押しつけて、グイグイと部屋の外に押出しました。
恐ろしい仕掛
ソーントンが仁科少佐を地下の牢に連れて行くのを見送っていたシムソンは、暫くすると、急に思い出したようにぎょッとしながら、部屋を出て、仁科少佐が破って飛込んだ窓の傍に行きました。そして、キョロキョロとあたりを眺めて、ホッと安心したように彼の国の言葉で呟《つぶや》きました。
「やはり、あの男一人だ。他には来ないらしい」
彼はガタガタと音を立てて、どうにか壊れた鎧戸を無理に締める事が出来ました。彼は又元の部屋に戻りました。そうして、肘付椅子の上に腰を下して、机の上の葉巻を取上げて、悠然とくゆらし始めましたが、どう云うものか、何となく気が落着かないのです。盗んだ秘密書類は安全な所に隠してあるし、今飛込んで来た大胆な男は地下の牢に入れたし、別に気にかかる事がある筈《はず》がないのですが、どうも、何事か起りそうな気がして、変に不安なのです。シムソンはキョロキョロと部屋の中を見廻しました。と、彼はアッと云う叫び声を上げて、顔色を変えました。部屋の隅には、いつの間に忍込《しのびこ》んだのか、一人の少年が立っていて、ピストルをじっと向けているではありませんか。
「手を挙げろ」
少年は叫びました。シムソンは口惜しそうに両手を高く挙げました。少年はシムソンの傍に寄って、彼のポケットからピストルを取上げました。
「貴様はお父さんのはかりごとにかかったんだ。お父さんはわざと知れるように窓を破って、ここへ入ったのだ。貴様達がお父さんに気をとられている暇に、僕はこっそり後から入ったのだ。貴様は今頃になって気がついて、破れた窓を調べに行ったが、もう遅い。さあ、お父さんを出せ」
「君は先刻《さっき》来た男の子供か。なるほど、そう云えばよく似ている」
シムソンは両手を高く挙げながら云いました。彼は何かしゃべっているうちに、少年が少しでも油断して隙を見せたら、飛《とび》かかってピストルを奪い取ろうという考えなのです。しかし、少年はその手には乗りません。
「そうだ。僕は仁科少佐の子供で道雄と云うのだ。さあ、ぐずぐず云わないで、お父さんを出せ。云う通りしないと射《う》つぞ」
「ハハハハ、日本人だけあって、子供でもなかなか勇敢だ。父を救けだそうとするのは頼もしい。アハハハハ」
「な、何を笑うのだ」少年はきっと眉《まゆ》を上げました。「よしッ。こうなれば貴様を射ち殺してから、お父さんを助け出すッ」
道雄少年は将《まさ》に猛然とピストルの引金を引こうとしました。シムソンはうろたえながら叫びました。
「ま、待て。そ、そんな乱暴な事してはいけない。私を殺しては、君のお父さんを助け出す事も、それから秘密書類をとり返す事も出来ないぞ」
「えッ」
急所をつかれたので、さすがの道雄少年も、ぎょッとして、引金にかけた手をゆるめました。その隙を見たシムソンは、急に一歩前に出て、机の上の釦《ボタン》に手をかけました。
「射つな」シムソンは急いで叫びました。「射ったら、私はこの釦を押す。この釦を押したら、君のお父さんは最後だ」
「えッ、何だって」
「この釦を押すと、電気仕掛で地下室へはドウドウと水が出るのだ。地下室は見る見る水で一杯になってしまう。地下室は鉄筋コンクリートで、窓は一つもない。君のお父さんはおぼれ死んでしまうのだ」
「えッ」
道雄少年はサッと顔色を変えました。彼のピストルを持った手は、ワナワナとふるえ出しました。
「フフン」シムソンは勝誇ったようにあざ笑いました。「どうだ。この私に手向いしようとしても無駄な事が分っただろう。さあ、そのピストルをこちらへよこせ。よこさないと、この釦を押すぞ」
「嘘だ。嘘だ」道雄少年は必死に叫びました。「そ、そんな事は貴様の出鱈目《でたらめ》だ。そんなおどかしには乗らないぞ」
「出鱈目? よろしい。そう云うなら、出鱈目か出鱈目でないか見せてやる」
シムソンは机の上の釦を押しました。
「さあ、耳を澄まして聞いてごらん。地下室に水の流れ出す音が聞えるから」
道雄少年は耳を澄ましました。なるほど、家のどこからか、ジャージャーと云う水の流れ出す音が聞えて来ました。確かに、それは地下室から洩《も》れ聞えて来るのです。その上にジャージャーと云う激しい水の音に交《まじ》って、う、う、と云う悲鳴のような声が聞えるのです。
「と、止めてくれ。水を止めてくれ」道雄少年は血の気のなくなった唇を噛みしめながら叫びました。「早く、止めてくれ」
「ハハハハ」シムソンは憎々しげに笑いました。「漸《ようや》く本当だと言う事が分ったか。だが、あわてる事はない。地下室へ水が一杯になるには、二時間位かかる。足から脛《すね》、脛から膝、膝から腹と、だんだん水につかって行く気持は、余りよくないだろうけれども、水がいよいよ天井につかえるまでは、呼吸《いき》は出来るから死にはしない。それまでは、君とゆっくり話をきめる事にしよう。先《ま》ず第一に、君の持っているピストルを机の上におき給え」
道雄少年は憎悪に燃えた眼で、きっとシムソンを睨《にら》みつけました。しかし、どうにも仕方がありません。がっかりしたように、机の上にピストルをおきました。
シムソンは急いで、少年のおいたピストルを手許《てもと》に引き寄せました。
「危い、危い。子供がこんなものを玩具《おもちゃ》にしては危険千万だ。先ず、これで一安心だ」
「早く水を止めて下さい」
「そう急がなくても、地下室一杯になるにはたっぷり二時間かかるのだ。今頃はもう踝《くるぶし》の所まで来たろう。君のお父さんはさぞかし、生きた空がなくて、冷々《ひやひや》しているだろうて。だが、そう急ぐ事はないて」
「悪漢! 人殺し! 間諜《スパイ》!」
道雄少年は土のように顔を蒼白《あおじろ》くしながら、ののしりました。
「ハハハハ、間諜だけは本当だ。けれども、私は人殺しでも悪漢でもない。君達が父子《おやこ》で私を諜計《はかりごと》にかけようとするから、そう云う目に会っただけの話だ。所で、聞くが、ここへ来たのは君達二人だけだろうね」
「そうです」
道雄少年はもう相手の云いなりになるより仕方がないと云う風に、おとなしくうなずいた。
「では、三日の間、君もお父さんと一緒の部屋に居て貰うことにしよう」
シムソンはそう云いながら、机の上の呼鈴の釦を押しました。所が、どうしたのか、なかなかソーントンが出て来ないので、シムソンはいらいらしながら何度も釦を押し直しました。
道雄少年は蒼白い顔をしながらも、クックッと笑い出しました。
「呼鈴の線は僕が切っておいたから、鳴りっこないさ」
「な、なんだって。電線を切るとはけしからん」
「ついでに、地下室の水を出す仕掛の電線も切っておけばよかったのです。つい、気がつかなかったものだから、残念な事をしましたよ。」
「馬鹿な事を云え。地下室の方の電線はうまく隠してあるから、君なんかに気はつかないよ。ソーントンが来なければ仕方がない。私が連れて行く。さあ立て、立って地下室へ来い」
「地下室に連れて行ってどうするのですか。お父さんと一緒に水攻めにして殺そうと云うのですか」
「殺しはしない。水は間もなく止めるよ。私は人を殺すのは嫌いだ。けれども、君達二人は私の邪魔をするから、二三日地下室の牢へ入れておくのだ。二三日のうちには、秘密書類は無事に仲間の手から本国へ送り出される筈だから」
「その為なら、私達を地下室へ監禁する事は無駄です」
道雄少年はきっぱり云い放ちました。シムソンは不審そうに、少年の顔を穴の開くほどみつめていましたが、
「それはどう云う事かね」
「書類は今頃はもう取り返された筈です。先刻《さっき》あなたはお父さんに、麹町郵便局に留置《とめおき》にしてあると云いました。僕はそれを部屋の外で聞いていましたから、あなたが窓の所を見に行った時に、この部屋に入って、その卓上電話で報告しておきました」
思いがけない道雄少年の言葉に、シムソンは顔を真蒼《まっさお》にして、のけ反《ぞ》るように驚くだろうと思いましたが、意外、彼はカラカラと笑い出しました。
「アハハハハ、ハハハハ」
電話の計略
「何を笑うのです」
道雄少年は突然笑い出したシムソンの顔を、呆《あき》れたように見守りながらとがめました。
「アハハハハ」シムソンはなおも笑いながら、
「君は私が先刻《さっき》本当の事を云ったと思っているのかね。麹町郵便局に留置《とめおき》にしてあると云うのは、出鱈目《でたらめ》なのだ。アハハハハ。君が本気にしたのは気の毒だったねえ」
「なあんだ」道雄少年はがっかりしながら云いました。「出鱈目だったのか」
「ハハハハ、大そう力を落したね」シムソンは、なぶるような口調で、「では、君にだけ本当の事を教えてやろうか。先刻はつい君が聞いている事を知らなかったので、もし本当の事を云えば大へんな事になる所だった。けれども、今は私は家の中を調べた上に、破れた窓も締りをしたし、大丈夫もう盗み聴きをしている者はない。君が少年の癖に、なかなか勇敢で父思いなのに免じて、本当の事を云ってやろう。秘密書類は、君、警視庁にちゃんと保管してあるんだぜ」
「警視庁に? そ、そんな馬鹿な事が」
「ハハハハ、警視庁に保管してあると云うと、信ぜられない馬鹿げた事だと思うだろう。けれども、それは間違いのない本当なんだ。私の部下は秘密書類を盗み出した時に、直ぐ私の所へ持って来ては、とり返しに来られる恐れがあると思って、二重底の鞄《かばん》に入れたまま、わざとタクシーの中に忘れたのだ。無論、運転手は何も知らずに警視庁へ届けたさ。それで、君達が血眼《ちまなこ》になって探している秘密書類は、今は警視庁の遺失物係りの所に、ちゃんと保管されているんだ。つまらない商品見本の入った鞄としてね。二三日うちに、私の部下が取りに行く事になっている。どうだ、私の智恵は。警官や憲兵が夢中になって探している書類が、所もあろうに警察の本尊の警視庁にちゃんと保管されていようとは、芝居のせりふ[#「せりふ」に傍点]じゃないが、お釈迦《しゃか》さまでも知らないだろう。アハハハハハ」
相手を袋の鼠の、しかも子供と侮《あなど》ってか、シムソンは彼の企《たくら》みを、さも自慢らしく述べ立てました。何という狡獪《こうかい》さ。盗んだものを、警視庁に置いて平然としているとは、実に驚くべき悪智恵ではありませんか。道雄少年は旨々《うまうま》とシムソンの秘密を知る事が出来ました。しかし、直ぐに地下室に連れて行かれるのです。折角聞き出しても、何の役に立ちましょうか。
シムソンはふと思い出したように、
「どうもおしゃべりが過ぎたようだ。地下室の水は大方腰の辺《あた》りまでになったろう。さあ、君を入れて、水を止めなければならん」
シムソンがこう云った時に、机の上の電話器がコツコツジージーという微《かす》かな変な音を立てました。道雄少年は急に生々《いきいき》とした顔になって、受話器に手をかけて、取上げようとしました。
「こらッ、触《さわ》ってはいけない」
シムソンは大声に叱りつけて、急いで自分で受話器を取り上げました。
「うむ」
受話器を耳に当てたシムソンは、忽《たちま》ち真蒼な顔をして、パタリと受話器を落しました
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