計略二重戦
少年密偵
甲賀三郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)仁科猛雄《にしなたけお》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)課長等|重《おも》だった
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あいつ[#「あいつ」に傍点]
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隠れた助力者
道雄少年のお父さんは仁科猛雄《にしなたけお》と云って、陸軍少佐です。しかし、仁科少佐は滅多《めった》に軍服を着ません。なぜなら少佐は特別の任務についているからです。特別の任務と云うのは、外国から入り込んで、隙《すき》があったら、日本帝国の軍機の秘密を盗もうとしている、恐るべき密偵を監視し警戒する役目なのです。こう云う恐るべき敵に対しては、仁科少佐を初めとして、何人もの人が日夜油断なく見張っていますが、相手も一生懸命ですから、時折は、残念ながら秘密書類を盗まれたりする事があります。仁科少佐はそう云う悲しむべき事が起った時に、いつでも、あらゆる方法を尽して、必ず敵から盗まれた書類をとり返して、我が国の危機を救っています。けれども、仁科少佐がそう云うむずかしい、且《か》つ危険な仕事に、間一髪《かんいっぱつ》と云う所で成功するには、いつも隠れた助力者があるのです。仁科少佐を助けて、敵の間諜《かんちょう》や密偵と闘って、いつも最後の勝利を獲得せしめている人は誰でしょうか。次の物語を読んで頂けば、きっと皆さんにお分りになって貰《もら》えると思います。
重大な命令
昭和×年も押詰《おしつま》った十二月の或日《あるひ》、仁科少佐は参諜本部の秘密会議室に呼ばれました。秘密室には参諜総長以下各部長各課長等|重《おも》だった人達がズラリと並んでいました。そうして、いずれも云い合したように、眉《まゆ》に深い皺《しわ》を寄せて、憂《うるわ》しげな様子を示していました。何とも云えない重苦しい空気が、部屋全体に漲《みなぎ》っているのでした。
仁科少佐は先《ま》ず直立不動の姿勢で参謀総長に敬礼して、続いて他の上官達に敬礼を一巡させました。
参謀総長は厳粛《げんしゅく》そのもののような顔をして、少佐をじっと見詰めながら重々しく云いました。
「本官は貴官に重大な命令を与える。事の成否は帝国の安危《あんき》に係《かか》っている。仁科少佐は、天皇陛下並に日本帝国の為、万難を排し、身命を抛《なげう》って任務を遂行《すいこう》する事を欲する」
「ハッ」
仁科少佐はいつもと違った総長の厳《おごそ》かな態度に、身体を硬《こわ》ばらしながら答えました。
「帝国陸軍の最も重要な秘密書類が、×国間謀の手に入った。貴官は速《すみや》かにその書類を奪回せよ。これが本官の命令である。尚《なお》、委《くわ》しい事情は情報課長から説明するじゃろう」
「ハッ」
仁科少佐は恭《うやうや》しく礼をしました。総長はホッとして、幾分顔を和《やわら》げながら、
「仁科少佐、これは実にむずかしい且つ危険な任務じゃ。命令は命令として、俺《わし》は一個人として君に頼む。君以外にこの任務の果せるものはないのじゃ。しっかり頼むぞ」
総長の情《なさけ》の籠《こも》った信頼の言葉に、仁科少佐の身体は益々《ますます》固くなるのでした。
情報課長の谷山大佐は、参謀総長の言葉をついで、どんな事があっても、三日以内には取返さなければならないと云う事と、書類の形や内容を話した後に、つけ加えました。
「書類を盗ませて、現に手に入れているのは、明《あきら》かに、例の麹町六番町《こうじまちろくばんちょう》に住んでいるウイラード・シムソンなのだ」
「えッ、シムソン! あいつ[#「あいつ」に傍点]ですか」
仁科少佐は叫びました。ウイラード・シムソン、彼こそはかねて某国の軍事探偵であると睨《にら》まれていた強《したた》か者でした。少佐は心のうちで、「これは強敵だぞ。だが、身命を賭《と》してかかれば何事かならざんやだ」と云ったのでした。
皆さんは敵方の間諜をなぜ捕えもせず、又本国へ追い返しもしないで、そっとして置くのかと、お疑いになるでしょう。尤《もっと》もな疑問ですが、たとえ間謀である疑いが十分であっても、これと云う確かな証拠がなければ、どうする事も出来ません。ましてや、相手は外国人ですから、下手な事をすれば直《す》ぐねじ込まれて、国際間に面倒な事が起るのです。
でも、と皆さんは云われるでしょう、そのシムソンと云う男が、秘密書類を奪《と》った事が確かなら、なぜ家宅捜査をするのと一緒に、縛《しば》ってしまわないかと。
それも尤もなご質問です。けれども、皆さん、考えて見て下さい。卑《いや》しくも間謀を務めている者、しかもシムソンのように一筋縄《ひとすじなわ》で行かない強か者が、盗んだ書類を身の廻りに置いているでしょうか。もし、縛ったり、家宅捜査をしたりして、書類が出て来なかったら、シムソンは何と云うでしょう。それこそ、どんな逆捻《さかね》じを食っても仕方がないではありませんか。
つまり、問題は盗まれた秘密書類がどこに隠されているかと云う事です。シムソンを縛って調べた所で、易々《やすやす》と云う気遣《きづか》いはありません。仁科少佐の任務はシムソンを縛る事よりも、どこに書類があるかと云う事を見つけて、一刻も早くそれを取り返す事にあるのです。
「シムソンは無論どこか安全な場所に書類を隠しているに相違ないのだ」谷山大佐は云いました。「彼は我々がきっととり返しに来ると思って、暫《しばら》くは様子を覗《うかが》っているに違いない。しかし、ぐずぐずしていると、彼は書類を隠し場所から取り出して、本国へ送るだろう。そうなっては大変だ。だから我々は出来るだけ速《すみや》かに隠し場所を発見して、取り戻さなければならないのだ」
「承知しました。誓って速かにとり返します」
仁科少佐は決心の色を現わして、きっぱり云いました。谷山大佐は満足そうにうなずきながら、
「ぜひ成功してくれ給え。いや、君なら必ず成功すると思っているのだ。しかし、気をつけ給えよ。シムソンはどうしてなかなかの奴なんだから。殊《こと》に彼の邸《やしき》はすっかり電気仕掛の盗難予防器が張り廻してあって、ちょっとでも手が触れると、家中に鳴り響くと云う事だから、余程用心しなくてはいかんぞ」
「御注意有難う存じます。では、閣下、仁科は重要書類を奪回して参ります」
少佐は参謀総長以下|並居《なみい》る上官に一渡り敬礼して、元気よく部屋を出ました。
猫と鼠
夜は深々《しんしん》と更けて、麹町《こうじまち》六番町のウイラード・シムソンの邸《やしき》のあたりは、まるで山奥のように静まり返っています。時折ヒュウヒュウという梢《こずえ》を吹く木枯しの音が、反《かえ》ってあたりの静かさを増しています。この夜更《よふけ》に、この寒さに、こんな所を通る人はあるまいと思うのに、折しもコツコツと歩道を踏んで来る人影がありました。
彼はシムソンの家の前に来ると、立止って、暫くあたりの様子を覗《うかが》っていました。門の前の電灯に照し出された男は、外套《がいとう》の襟《えり》を立てて、帽子を眉深《まぶか》にかぶっていますが、疑いもなく仁科猛雄でした。
仁科少佐はやがてヒラリと鉄柵を越えて、シムソンの邸の中に躍り込みました。鉄柵と云うのは、ホンの腰位の高さの煉瓦《れんが》の柱の間に、やはり同じ位の高さで張《は》り巡《めぐ》らしてあるので、飛越えるには大した造作はないのです。しかし、用心堅固の邸の中へ入るのは容易な事ではありません。仁科少佐にはどんな成算があるのでしょうか。
仁科少佐はツカツカと宏壮な洋館の傍《そば》に近づきました。そうして、ああ、何たる乱暴! 手に持っていた太いステッキで、窓にピタリと締っている鎧戸《よろいど》を力任せに叩きました。
メリメリと鎧戸は壊れました。少佐はその壊れ目にステッキを突込んで、梃《てこ》のようにして、とうとう鎧戸をこじり開けました。次に彼は窓の硝子《ガラス》を叩き破りました。ああ、鎧戸や窓硝子を壊した音は兎《と》に角《かく》として、電気仕掛の報知器はシムソンの部屋のあたりで鳴り響いているでしょうに。仁科少佐は谷山大佐からぐれぐれも注意して貰った事を忘れたのでしょうか。もし、忘れていないとしたら、何たる大胆不敵ぞ、いや、寧《むし》ろ無謀な事ではありませんか。
窓硝子を叩き破《わ》った仁科少佐は、破れ目から手を入れて、窓を開けました。そうして、そこからヒラリと家の中に飛込みました。部屋の中は真暗です。少佐は扉《ドア》を開けて廊下に出ました。廊下も真暗です。少佐は爪先探《つまさきさぐ》りに進んで行きました。すると、不意に横から少佐目がけて、パッと懐中電灯が照《てら》されました。そうして同時に、固いものが少佐の脇腹《わきばら》に当りました。少佐はハッと驚いて両手を上げました。ピストルの筒口が横腹に突きつけられたのです。ああ少佐はとうとう敵に捕《つかま》ったのです。
「ハハハハ、よくお出になりました。私が案内いたします。さあ、お歩きなさい」
嘲《あざけ》るように云ったのはシムソンでした。さすがに間謀を勤めるだけあって、アクセントは少し変ですが、日本語はうまいものです。
仁科少佐はピストルを突きつけられて、両手を挙げたまま、前の方に押し進められました。
やがて、少佐はシムソンの居間らしい部屋の中に追い入れられました。シムソンは少佐のポケットを調べて、持っていたピストルを取り上げました。
「まあ、おかけなさい」
シムソンは前にあった椅子を指しました。仁科少佐は残念そうな顔をしましたが、云われるままに椅子にかけました。
シムソンは少佐の前の肘付椅子《ひじつきいす》にドッカリ腰を下しました。そうして、油断なくピストルを突きつけながら、
「あなた軍人ですね。何しに来ましたか」
「――――」
少佐は歯を食いしばって答えません。
「答えなくても、私には分っています。あなた、秘密書類|奪《と》りに来たのでしょう」
「――――」
「あなた、口惜《くや》しそうな顔をしていますね。けれども、あなたのやり方は乱暴です。私の邸には電気仕掛の報知器がついています。盗みに入る事はなかなか出来ません。でも、あなたはさすがに日本軍人、勇敢ですね。たった一人でここへ来るとは」
「やかましい」少佐はうるさそうに云いました。「僕は失敗したんだ。何も云う事もないし、聞く事もない。早く好きなようにしろ」
「ハハハハ、日本軍人、勇敢だけではありません。負け惜しみが強いです。ハハハハ」
シムソンは相手が何も出来ないと見て、まるで猫が捕えた鼠を弄《もてあそ》ぶように云うのでした。
「私、あなたを殺しません。殺すと、後の仕事に差支えます。けれども逃がす事は出来ません。窮屈《きゅうくつ》でも二三日この家にいて下さい。二三日すると、盗んだ書類は無事に仲間に渡せます。仲間のものが国へ持って行きます。ハハハハ」
シムソンはそう云いながら、机の上の呼鈴《よびりん》を押しました。やがて、扉《ドア》をノックして入って来たのは、背の高い、見るから獰猛《どうもう》な面構《つらがま》えをした外国人でした。
「ソーントン。お客さんを地下室に御案内なさい」
シムソンは外国語で命令しました。ソーントンと云う部下は黙ってうなずいて、ポケットから大型のピストルを取り出して、仁科少佐に突きつけながら、
「どうぞ、こちらへ」と下手な日本語で云いました。
少佐は覚悟をきめたと云う風に、悪びれずに立上りました。そうして、ソーントンに送られて、部屋の戸口に歩み寄りますと、シムソンは何と思ったか、急に呼び留《と》めました。
「軍人さん、ちょっとお待ちなさい。あなた折角ここへ来て、直ぐ地下室へ入れられるのは、余り残念でしょう。ここへ来られたお礼です。秘密書類がどこにあるか、教えて上げましょう。お国の大事の大事の書類は、麹町郵便局に留置《とめおき》郵便にして置いてあります。あなた、いい土産
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