いから、取違えないとも限らないのです。それ故、病院では、着物に糸で印をつけたり、或いは番号を付したりしています。アメリカの大都市の産院ではこの間違いを防ぐ為に、初生児の指紋は取り悪《にく》いから、蹠紋を取ることにしています。そういう訳で、K病院でも、無闇に生れた子供を取違える訳はありません。そんな不注意や過失はないと思います。ですが故意にやることは防げません。
私達の子供を故意に取替えたもの、それはいわずと知れた毛沼博士です。それは何という無慈悲な惨酷な復讐でしょう。
私はあなたの血液型の事を聞き、K病院で生れた事、生年月日を知って、及ぶ限りの綿密な調査をしました。その結果確かに毛沼博士の憎むべき奸計《かんけい》であることが分ったのです。K病院では整形外科の手術室のすぐ前に産室があります。当時毛沼博士は整形外科の医員に友人があり、旨《うま》く頼み込んで、妻が出産をする前夜に、始終整形外科に出入していることが判明しました。それに私の死んだ児とあなたが元通りになれば、その結果は学問上の断案と何等矛盾しないようになるのです。
復讐の手段に事を欠いて、何という不徳な破倫な方法でしょう。それによって、私達夫妻はどんな苦しみを受けた事でしょう。そうして場合によっては、死ぬまでその苦しみを続けなければならなかったのです。彼に酬《むくい》るもの死以外には何ものもないではありませんか。
然し、漫然と彼を殺すことは意味のないことです。彼に何によって死を与えられるかということを十分知らさなければなりません。私は彼に私達の子供の生れた時を思い出さしめ、且つ血液型を暗示するような記号を書いた書面を送りました。それは確かに手答えがありました。彼はひどくうろたえ始め、護身用のピストルを携帯したり、部屋に鍵を下したりするようになりました。彼は無言のうちに、非道の所為《しょい》を告白したのです。
あの夜私は彼の家の中に潜んでいて、あなたが帰られると、入れ違いに彼の部屋に這入って、或るトリックを瓦斯ストーブに加えました。その時にふと机の上の雑誌に眼がつき、その中の写真版を引ちぎったのは、浅墓《あさはか》な所為でした。その為に後であなたから疑われる結果になったのです。
ストーブにトリックを加えた後、私は徐《おもむ》ろに毛沼を揺り起しました。彼が眼を覚《さ》まして、ドキンとしながら、あわててピストルを取り上げようとした手を押えて、かつての日の彼の奸計を責め、近く復讐を遂げるぞと宣言し、彼がキョロキョロしている暇に忽ち部屋の外に出ました。彼は予期した通り声を上げて家人を呼ぶような事はなく、すぐに起上って、内部から鍵をかけました。之で私の思う壺です。彼が再び寝台に横たわるのを待ち、ある方法で毒ガスを送り、ストーブから燃料ガスを放出させました。委《くわ》しい殺害方法は書きたくありません。よろしく御推察下さい。私のトリックは成功しました。あなた以外誰一人とて死因を疑ったものはありません。過失によるガス中毒死という事になったのです。
私は最初、毛沼博士が暗黙のうちに卑劣な方法で私達を苦しめたのですから、暗黙のうちに復讐を加えて、知らぬ顔をしていようと思っていました。然し、やはり良心が許しませんでした。それに、あなたが気づいたらしい事が、大へん恐ろしかったのです。私はやはり自決することにしました。薄命な妻は私の話を聞いて、一緒に死にたいといいました。私は遂にそれを許しました。
私達夫妻の願いとして、生前一言あなたが私達の真の子供であると名乗りたかったのです。そして何回かそれをいいかけましたが、やはりいえませんでした。何故なら、私は縁あって私の子になったものに、あまりに冷かったのです。而《しか》もそれを亡くなして終いました。今あなたを私の子だなどといっては、あなたの御両親に相すみません。あなたの御両親はあなたを真の子供だと思って、慈しみお育てになったのです。私の見た所では、あなたは御両親にも、又弟妹の方達にもあまり似てはおられません。それにも関らず何の疑いもなく、愛育されたのです。私が疑い通し、悩み通したのと、どれほどの相違でしょうか。死んだ子供に対しつれなかっただけ、私はあなたの御両親に合わせる顔がありません。又、あなたを私達の子だといい張る勇気もないのです。
ではさようなら、最初にお願いして置いた事を呉々も忘れないように。立派なそうして正しい人間になって、幸福に暮して下さい。
[#地付き](一九三四年六、七月号)
底本:「「ぷろふいる」傑作選 幻の探偵雑誌1」ミステリー文学資料館・編、光文社文庫、光文社
2000(平成12)年3月20日初版1刷発行
初出:「ぷろふいる」
1934(昭和9)年6、7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:大野 晋
2004年11月4日作成
2005年12月11日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全8ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
甲賀 三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング