きっぱりと答えた。

 野村は座に居たゝまらなかった。
 彼は再び口実を設けて外に出た。
(うぬッ、重武なんかに負けて耐《たま》るものか。そやつの考え出した事が、俺に考えつかないなんて、そんな法があるものか)
 野村は必死になって考え続けながら、その辺を歩き廻った。
 ふと、気がつくと、彼は太田医院の前を歩いていた。正午近い時だったが、玄関には薬を貰う人達が群れていた。
 野村は立止った。
 今しも調剤した薬が、薬局の狭い口から出されて、看護婦が「誰々さん」と呼んだ。薬瓶と薬袋とは暫く、窓口の前の小さな台の上に乗っていた。やがて、女中らしい恰好した者がそれに進み出た。と、それと前後して、一人の中年の男が窓口に近づいた。
 野村はハッと気がついた。彼は躍り上った。そうして、医院の中にツカ/\と這入って、太田医師に頼んで、薬局係りの看護婦に会せて貰った。
 野村の呼吸《いき》は弾んでいた。
「一昨日ですね、二川さんから薬を取りに来た時の事を思い出して下さい。あなたが窓から出しましたか」
「はい、二川さんと呼んで、台の上に置きました」
「その時にですね、窓の側《そば》に誰かいませんでしたか」
「さア」と看護婦は鳥渡考えて、「一昨日の事ですから、よく覚えていませんけれども」
「思い出して下さいませんか」
「どなたかおられたかも知れません。然し、どうもよく覚えておりません」
「そうですか」野村はがっかりして、「では、昨日か今日薬取りに来なければならん人が、来ないという事はありませんか」
「あア、調べて見なければ分りませんけれども――一人ありますわ。一昨日初めて来られた方で、今日お出にならない方が」
「何という人ですか」
「えゝと、確か野村儀造と仰有いました」
「えッ」野村は飛上った。
 もう疑う余地はないのだ。重武は変装して、人もあろうに野村の父の名を騙って、太田医院で診察を受け、薬を貰う風をして、薬局の窓口にいて、二川さんといって看護婦が差出して台の上に置いた薬を、素早く毒薬とスリ替えて終《しま》ったのだ!
 だが――野村は帰り途で、低く頭を垂れながら考えるのだった。――太田医師と看護婦は果して、野村儀造と名乗った男を二川重武に違いないと証明するだろうか。重武はむろん否定するだろう。又仮りにそれが認められたとして、窓口で薬をスリ替えた事実が認められるだろうか。むろん重武は絶対に否認するに極っているのだ。偽名して診察を受けた事は不利ではあるが、それが何か恥かしい病気であれば、大して非難も出来ない事ではないか。それに彼が今日診察を受けに来ないのは、当然なのだ。彼は二川家で忙《せわ》しく采配を振っているのだ。
 検事局は告発は受理して呉れるとしても、果して検挙するだろうか。検挙しても起訴出来るだろうか。
 野村には重武の罪が明々白々のように思われた。然し、彼を罰せしむべく、十分の自信がないのだ。
 多くの事は時が解決して呉れる。然し、この事件に限り、時が経てば経つほど駄目になるのだ。赤いうちに打たねばならぬ鉄なのだ。
 野村はいら/\しながら、当度《あてど》もなく歩き廻っていた。


          七

 翌日午後二時、青山斎場で二川重明の神式による葬儀がしめやかに行われた。
 斎主は二川家の相続者たる重武だった。
 重武は真白な喪服をつけて、玉串《たまぐし》を捧げて多数の会葬者の見守る中を、しず/\と祭壇に近づいた。
 と、突然、会葬者の中から脱兎の如く飛出して、重武に飛びついた者があった。
 それが中年の婦人であること、重武の純白の式服がみる/\真赤になって、彼がバッタリと斃れたこと。加害者たる中年の婦人が、返す刃《やいば》で咽喉を掻き切って、その上に折り重なったこと、それは全く瞬間的に、会葬者の眼に映じた事だった。彼等は恰《あたか》も悪夢を見るように暫くは呆然としていた。
 加害者の婦人は五十五六の品のいゝ老婆だった。即座に縡切《ことき》れたので、むろん、姓名も住所も分らなかった。
 野村儀作にだけ、この加害者婦人が、何という名で、何の目的で重武を斃したのか、はっきり分っていた。
 然し、彼は誰にもその事をいわなかった。
 こうして、由緒ある二川家は遂に断絶したのだった。
[#地付き](〈新青年〉昭和十年八、九月号連載)



底本:「日本探偵小説全集1 黒岩涙香 小酒井不木 甲賀三郎集」創元推理文庫、東京創元社
   1984(昭和59)年12月21日初版
   1996(平成8)年8月2日8版
初出:「新青年」
   1935(昭和10)年8、9月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:小林繁雄
2005年11月1日作成
青空文庫作成ファイ
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