れるとは、何と奇《く》しき事ではないか。
書留の書類には添え手紙があった。それは宮野得次という全く未知の弁護士から送られたもので、それにはかねて二川子爵から依頼を受けていたもので、絶対に秘密に保管して、子爵が死んだ時に、直ちに遅滞なく貴下宛に送るべく命ぜられていたもので、今やその命令通り実行するものである事が認《したゝ》められていた。母親は彼女の夫に先代子爵の遺書の送られた事をよく覚えているので、不安そうに、
「やっぱり遺書でしょう」
「えゝ、どうもそうらしいです」
野村は封を切った。母親は暫く坐っていたが、
「ゆっくり読みなさい」
野村はそれを見送って、電灯をパチンと捻《ひね》って、送られた遺書を読み始めた。(前篇終り)
五
重明から送られた遺書は、一、二、三と三部に分《わか》たれて、それ/″\番号が附してあった。
野村は順序に従って、先ず第一の番号のつけてあるものを取上げた。日付は書かれていなかったが、内容と前後の関係から推して、重明が雪渓の発掘を始める少し以前らしく、六月の終りか、七月の初めの頃と思われた。
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六月の雨は中世紀の僧院のように、暗くて静かだ。適《たま》に晴間を見せて、薄日が射すと、反《かえ》ってあたりは醜くなる。太陽の輝く都会は僕にとっては余りにど強《ぎつ》い。
野村君、とこう親しく呼びかけても、或いはこの文章は君の眼に触れないかも知れない。実は僕はその方を望んでいるのだ。然し、兎に角、僕は梅雨に濡れた庭を眺めながら、之を書いている。
野村君、考えて見ると、僕の人生は六月の雨のそれだった。暗くて静かだった。滅多に太陽を見ることが出来なかった。
けれども、僕にとっては、却ってその方が気易かった。すべてが白日下に曝《さら》け出されることは、むしろ恐ろしいのだ。
けれども、僕はいつまでも都合のいゝ世界で、安逸を貪っていることは許されなかった。僕はいつまでも卑怯である訳には行かなかったのだ。
僕は物心のつく時分から、疑惑の世界に追込まれていた。僕は不幸だった。僕は悲しかった。然し、一面には僕は恵まれていた。考えさえしなければ、妥協さえしていれば、幸福だったのだ。実際にも、そうした状態で長い年月を送って来たのだった。
然し、僕の身体に巣食っていた疑惑の病菌は、僕の意志の如何《いかん》
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