ていた貯えは、二週間のうちに費《つか》い果して終った。明日からはどうしよう。
 隣近所のおかみさん達はほんとによくお世話下さる。でもみんなそれぞれ自分達の子供や仕事があるのだ。況《ま》してお金の事など、どうして頼む事が出来よう。意気地のない私はお金を儲ける事などは無論のこと、借りに行く所さえないのだ。
 お父さんをお訪ねして、事情を申上げれば、可愛い息子さんの事ですもの、私は憎いかも知れないけれども(そうなれば私は身を引くばかりだ。意気地なしめ、涙なんか流す奴があるものか)、きっと何とかして下さるだろうと思った事は一度や二度じゃないけれども、もしや明日にも熱が下るかと空頼みをして、それにあれ程堅い決心をしていなさる夫に後で叱られる辛さに、今日までは歯を喰い縛って辛抱して来た。
 赤ン坊の親達はどうしていなさるだろう。一週間前に私立探偵社へ頼みに行ったんだけれども、今だに分らない。今更愚痴な事だけれども、せめてこの赤ン坊さえ預らなければ夫の世話も届くんだったのに。ああ思うまい。思うまい。みんな神様の覚召なんだ。
 でも、明日からどうしよう。お金がなくてどうして夫の病気を治す事が出来よう。赤ン坊を育てて行く事が出来よう。夫にもしもの事があれば私はお父さんに合す顔がない。どうしよう。
 私は泣いて泣いて、流す涙も尽きて終った。精も根も尽き果てて終った。畳の上へどうとつっぷして終った。
 その時に思いがけなくガラリと格子が開いた。はっと起き上ると、案内もなしに一人の年とった紳士がぬっと這入って来たので、私は吃驚した。よく見ると、それが一度お目にかかった事のある夫のお父さんだったので、驚くまい事か、私は恥しさと恐しさとで、忽ち畳に頭を摺りつけて終った。
 お父さんは、ズカズカと夫の傍へ寄って、じっと痩せ衰えた顔と激しい息遣いを見て居られたが、お眼に涙が光っていた。
「えらい苦労をかけたのう。もう大丈夫じゃ。安心おし」
 思いがけなく、優しい言葉をかけられたので、私は耐らなくなって、わあと声を上げて泣いて終った。
「赤ン坊はここかな」
 こう仰有って、三畳の間の襖をガラリとおあけになって、部屋へ這入ると、お父さんはいきなり赤ン坊を抱き上げた。
「おお達者でいたか」とあやしながら私の方を向いて、「お前さんのお蔭じゃ。厚くお礼申しますぞ」と云われた。
 私は何が何やらさっぱり分らない。
 赤ン坊は抱かれながら円々《まるまる》と肥った顔をニコニコさせていた。
 ふと気がつくと格子の外に丸髷姿の奥さんが立っていた。私は恥しくって声をかける事が出来なかった。夫が助かったと云う喜びと、赤ちゃんの親が知れた安心とで、夢を見るような心地でただウロウロしていた。

        再び夫の手記

 この頃の幸福な生活を思うと夢のようだ。去年の今頃は私は死生の間を彷徨していたのだ。裏長屋のジメジメした一室で大熱に悩んでいたのだ。妻は大病の私と、私が奇妙な出来事から抱いて帰って来た赤ン坊(其の赤ン坊は今はもう歩くようになって、現に今之を書いている私の傍で、せっせと悪戯をしている)との間に立って、あらゆる辛酸を嘗めていた。そこへ父が飛び込んで来たのだった。
 妻は父が這入って来た時にはひどく驚いたそうだ。父が赤ン坊を抱き上げてあやした時には何が何だか分らなかったそうだ。
 赤ン坊は父の子だったんだ。私の妹だったんだ。
 父は私が家出した後に奉公に来た小間使と恋に陥ちた。独身生活を永くやった上、たった一人の息子に背かれた父は五十を越した身で始めてほんとうの恋を味った。
 その女は間もなく子供を生んだ。それが私の見た赤ン坊のお母さんだった。赤ン坊のお母さんは以前に一度私の宅へ奉公に来た事があるそうで、私をよく見知っていた。あの日自動車に乗り悩んでいた時に、親切に赤ン坊を取って呉れた青年を一眼見ると、それが私だったので、あっと思ううちに自動車に乗り損って終った。次の自動車が中々来なかったのが間違いの元だった。彼女は気が気でないので、電車に乗った。その電車が故障を起したので、乗替場所まで歩いたりしていたので、大へん暇取った。そのうちに私は父を見つけて(父は彼女と赤ン坊を待っていたのだった。彼女とは別居していたので、時折打合して買物などを一緒にした)、外へ出て終ったので、彼女の来た頃には私は居なかった。父と彼女は私を探したけれども、無論見つからなかった。
 父は赤ン坊が他人ならぬ私の手に渡ったので、いくらかは安心していた。そして父はこの赤ン坊の事件を警察の手に出す事を好まなかった。父は久しい以前から、もう私を許しているのだった。父は私が帰りさえすれば、いつでも抱き迎えたのだった。それで充分手を尽して私の行衛を探していたのだったが。今度は同時に赤ン坊の行衛も突留める事が出来るのだから、赤ン坊の事は隠して、私の捜索のみを、事新しく警察に願い出たり、私立探偵社を煩わしたりして、一生懸命に手を尽したのであった。
 然し十数日の捜索が無効に終ったので、父はとうとう、母親をある探偵社にやって、赤ン坊の事を依頼さした。それが偶然私の妻が頼みに行った所だった為めに、すぐ解決する事が出来た。父は私の窮状と私の妻の貞節を聞いて涙を流した。そうして私達の隠家たる裏長屋に飛び込んで来たのだった。
 それから、父も私も妻も赤ン坊も赤ン坊の母親もみんな幸福だった。赤ン坊は私達を幸福に導いて呉れた天使だった。
 妹はみんなから可愛がられている。可愛がらずに居られるものか。でも、お前は私に似ているので嫂さんを心配さしたんだよ。
[#地付き](「探偵文藝」一九二六年四月号)



底本:「幻の探偵雑誌5 「探偵文藝」傑作選」光文社文庫、光文社
   2001(平成13)年2月20日初版1刷発行
初出:「探偵文藝 第2巻第4号」奎運社
   1926(大正15)年4月号
入力:川山隆
校正:土屋隆
2006年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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