ぬ。ではどこ? 東京駅前だ。呉服店だ。現に青年も健康でさえあれば、そこへ出かけた筈ではないか。
時刻は? 矢張り始めに別れた時刻だ。
そう思って私は依頼を受けてから五日目、午後二時過ぎ、東京駅前に行った。
駅頭は相変らず混雑していた。呉服店行の自動車には群集が犇めいていた。私は思わず微笑んだ。
二三台の自動車を見送っているうちに、ふと私はそこから少し離れた所に一人の婦人が佇《たたず》んでいるのを発見した。
年の頃は二十五六、少し面窶《おもやつ》れはしているが、丸髷に結った奥さん風のすっきりとした美しい婦人である。
じっと観察していると、彼女は自動車の発着の度に、眼を輝して忙しく乗降の人を探し求めている。自動車の姿が消えると、そのぱっちりとした眼は急に悲しそうになる。
私は思った。この婦人だ。この婦人に違いない。私は思い切って傍へ行って言葉をかけようとした。その時に予期しない邪魔者が這入った。私が近寄らないうちに、私と反対の方から、一人の憂鬱な皺を額に刻んだ頑丈そうな六十近い年頃の紳士が太いステッキを振り振り婦人の傍へツカツカと寄って、一言二言囁いたと思うと、一緒にさっさと歩き出したのである。
私は機会を失して茫然とその後姿がだんだん小さくなるのを見送っていた。
だが、私は幸されていた。その夜、思いがけなく、赤ン坊を人に預けたまま、行衛を見失った母親が、その赤ン坊の捜索を私に頼む為めに私を訪ねて来た。美しい丸髷の婦人で、今日東京駅前で見たその人であった。
再び妻の手記
流元《ながしもと》で氷を砕いて立上ろうとすると、くらくらとして急にあたりが暗くなって終った。それからどれ位経ったか、赤ン坊の泣声に気がつくと、私は台所の板敷につっ伏《ぷ》していた。永い間の寝不足で瞼がひとりでに塞って、気が遠くなるのを一生懸命に堪えて、部屋に這入ると、寝ている夫の頭にそっと氷嚢を載せた。それからそっと三畳に寝ている赤ン坊を覗き込んだ。
夫は一時下りかけた熱がブリ返えして、高い熱が又一週間続いている。赤ン坊は幸せと丈夫だったけれども、病気の夫を抱えて、馴れない赤ン坊の世話だもの。気苦労ばかりで、思うように行かない。今にも動けなくなる時が来そうな気がする。
それに、薬代とか、氷代、炭代、赤ン坊の牛乳代など、倹約にしていれば二月位あるだろうと夫と話し
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