子が白く闇に浮かぶはずなんですもの。ハッと思うと、眼がすっかり覚めてしまったの。念のため手探りで障子を開けて見ると真っ暗でしょう。その途端に確かに書斎から人の出て来るような気配がしたの。あたし震え上がっちゃったわ。床の中へ潜《もぐ》り込んで蒲団を被《かぶ》っていたの。しばらくすると辺りはしーんとして、もう物音も何も聞こえないでしょう。あたし恐々《こわごわ》起きて、電灯を点けて見たの。それからまたしばらく息を凝らしていたけれども別に何の変わった事もないので、少し元気が出て来て、廊下伝いに書生部屋へ出て、廊下の外から、下村さん内野さんと呼んだの。二人とも平常《ふだん》はそりゃ目覚《めざと》いんだけれども、その時に限ってグウグウ鼾を掻いているので、とても駄目だと思って、部屋へ帰って寝てしまったの。とても書斎の方へ行く元気はなかったわ。
 なかなか寝つかれなくて、それでも明け方にトロトロとしたでしょう。外が少し白んで来たと思うともう起き上がって、気になっていたもんだから先生のお寝みになる部屋を第一番に覗いて見ると、前の晩にあたしが取って置いた通り、床がチャンとして、先生のお休みになった様子がないじゃありませんか。あたしはハッと思って、急いで書斎へ行って、扉《ドア》をコツコツ叩《たた》いて見ても返事がないでしょう。胸をドキンドキンさせながら、恐々扉を開けてみたの。そうすると先生は背向《うしろむ》きに椅子にかけて正面の大きな書き物机にもたれて、ガックリとこう転《うた》た寝でも遊ばしているような恰好なんでしょう。先生、先生と呼んで見たけれどもちっとも返辞がありません。あたしもう耐《たま》らなく不安になって、書生部屋へ駈けつけて、二人を起こしたの。内野さんも下村さんもなかなか起きないんですものね。随分困ったわ。やっと眼を醒ました二人に先生が変だというと、二人はまるで弦《つる》から放れた矢のように部屋を飛び出したわ。あたしが後から追い駈けてゆくと、扉の所で二人が話しているの。
『君、ちょっと待ちたまえ』下村さんの声、『手袋をはめて入ろうじゃないか。誰かこの部屋を荒らしたようだから、指紋を消してしまうといけない』
 内野さんも異議がなかったと見えて、二人とも書生部屋に引き返して、手袋をはめて書斎へ入ったの。変に丁寧な事をすると思ったわ。あたしもあとからそっと部屋に入ると驚いたわ。本箱の中の本は残らずといっていい位外へ出して、開け放しのままや、閉じたままに積み重ねてあるし、抽斗《ひきだし》は残らず引き抜いて、そりゃもう部屋中はめちゃくちゃに引っ掻き回してあるの。先生は相変わらずじっとしていらっしゃるでしょう。つかつかと先生のお傍へ寄って行ってね。肩へ手をかけて起こそうと思ってふと頸《くび》の所を見ると真っ黒なものがベットリついているの。よく見るとそれが血なんでしょう。あたし内野さんが抱き留めてくれなきゃ、きっとあそこへ引っくり返ったに違いないわ。
『これでやったんだな』下村さんがそういって先生の側《そば》へしゃがんだので、見ると血のついた文鎮が足許の所に落ちていたわ。この文鎮というのは先生がフルスカップって、そら大きな西洋の罫紙《けいし》ね、あれを広げたまま押さえる為に特別にお拵《こしら》えになったので、長さ一尺以上あるでしょう。ニッケルなんですって。あたし掃除をする時によく持ったけれども、そりゃ重いもんよ。いつだったか先生が冗談に『八重《やえ》、これで力一杯ぶたれると一思いだよ』と仰しゃった事があったけれども、ほんとにこれでぶたれてしまいなすったんだわ。
 下村さんも内野さんも妙な人よ。あたしに何も触っちゃいけないといって、二人で一生懸命に、手袋をはめた手でそこいら中引っ掻き回して、といっても、そりゃ丁寧なのよ。ちゃんと元の通りにして置くんですものね。口なんか少しも利かないの。窓の様子を調べたり、床の上を這い回ったり、壁を叩いて見たり、あたしこう思ったわ。きっと二人共近頃|流行《はやり》の探偵小説にかぶれて、名探偵気取りで、犯人を探そうと思って競争しているんだと。二人はよく競争するんですものね。え、あたしが居るからだって。冗談でしょう。二人ともなかなかそんな人じゃなくてよ。それであたし二人が余り探し回るから、ちょっとからかおうかと思ったけれども、場合が場合でしょう。それに二人が余り真剣なんですものね。手持ち無沙汰でもあり、気味悪くもあり部屋を出ようとすると、内野さんが、『八重ちゃん。まだ外《ほか》の人には知らさない方がいいよ』といったので、あたしは自分の部屋へ帰ったけれどもどうしてよいのやら、いても立っても耐《たま》らなかったわ。
 そのうちに下村さんが警察へ電話をかけたらしいの。八時頃だったでしょう。自動車でドヤドヤと大勢お役人さんが来たの、あ
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