と壁の手を放して、その隅へ大急ぎで行ったわ。それから二人で一つ一つ羽目板を揺すぶったけれどもビクともしやしないわ。とうとう諦めて私に書生を呼んでくれといったの。あたしが内野さんと下村さんを連れて帰って来ると、検事さんが『君、西北というのはこの隅ですね』と今まで探していた隅を指したの。二人は、――やっぱり男は偉いわね、――すぐに『いいえこの隅です』と机とちょうど反対の隅を指したわ。
『君は一体何を見たんだ』と検事さんが怒鳴ったの。
『磁石を見たのです』若い方も少し怒りながらいったわ。
『見せて見たまえ』年寄りの方が引ったくるように磁石を受け取ってしばらく見てたっけ。
『馬鹿な。君はどうかしているこっちが北だから、君のいう方は東北じゃないか』
『そんなはずはありません』若い方はむっとしながら、磁石を受け取ったの。それから頓狂《とんきょう》な声を出したわ。
『オヤ、変だ。さっき見た時と針の指し方が違う』
『馬鹿な事をいっちゃいけない。磁石の針が五分や十分の間に狂うものか』
『――』腑《ふ》に落ちないのでしょう。若い人は黙ってじっと磁石を見つめていたわ。
 議論はともかく、遺言を出さねばならないでしょう。西北の隅というのは大きな本箱のある所ですものね。総がかりで本箱を動かしてね。検事さんが調べるとね。じきに板のズレる所が分かって、鍵穴があったの。鍵は無論合うし、訳なく遺言状が出たわ。奥さんでなければ開けられないので、あたしが枕頭《まくらもと》に持って行って開けたの。中にはいろいろ細かい事が書いてあったけれども、別に一枚の紙があって、思いがけない大変なことが書いてあったの。余程興奮してお書きになったと見えて、ブルブル震えて、字の大きさや行なども不揃いだったわ。あたし読んでいるうちに蒼くなっちゃったわ。
『私はきっと清水に殺されるに違いない。
 私はほんの僅かな借金が原因《もと》で、清水に長い年月|苛《さい》なまれて来た。私はただ彼の奴隷として生き永らえたのだ。私は涙を呑んで堪え忍んだ。私は研究が可愛かったのである。私はただ研究が完成したかったのだ。ところが清水は私のその大切な研究を金になりさえすればというので、密かに窺《うかが》っているのだ。彼は一方に私の復讐を恐れるのと、一方にこの研究を手に入れたい為に私を邪魔にしているのだ。私はきっと清水に殺されるに相違ない。もし私が変死をすれば、それは清水の手にかかったのだ――』
 よく覚えていないけれども文章はまあこんな風だったと思うわ。奥さんのいいつけでこの遺書を持って検事さんの所へ行くと、流石《さすが》のお爺さんも驚いたようだったわ。それから一時間程して、清水の業突張《ごうつくば》りが書斎へ連れられて来たの。まるで死人のような真っ蒼な顔をしていたわ。何しろ文鎮には立派に清水の指紋がついていた事が判ったのでしょう。前夜遅くまで家に帰らなかった弁解《いいわけ》は出来ないし、先生との関係がどんな風だか[#「どんな風だか」は底本では「どんな風だが」]、下村さん達がいったし、それに先生の書き置きでしょう。とても逃れる所はないんですものね、蒼い顔をして悄然《しょうぜん》としているのを見ると、あたしはほんとにいい気味だったわ。こいつが先生を殺したんだと思うと随分憎らしくもあったわ。
 あたしそう思ったわ。清水の奴、文鎮で先生を殺して置いて、ええ、傷口はピッタリ文鎮と合ったのよ。これで打った事は疑いの余地はないの。そして自分の事を書いてある遺書《かきおき》のあるのをどうかして知っていて、それを奪《と》ろうと部屋中探したに違いないとね。何てずうずうしいんでしょう。あたし達三人また検事さんの前に呼ばれて清水の事で調べられたわ。
『お前は被害者が清水宛てに手紙を出した事を知ってるか』って聞かれたわ。
 あたしそんな事知らなかったの。下村さん達も知らなかったわ。先生の手紙は大抵あたしが出しに行くのですから、あたしならまあ知っている訳だわ。
 清水がこういうんですって。昨日の昼先生から秘密の用談があるから、今晩遅くに来てくれという手紙を貰《もら》ったのですって、それで夜出かけたけれども、先《せん》に一度銀行の通帳の事で一杯喰わされた事があるので、何となく気が進まず、宅《うち》の前まで来てそのまま帰っちゃったんですって。だって可笑しいでしょう。先生の手紙が通帳の一件とは何の関係もないし、それに先生の手紙は破いてくれとあったのでその通り破いたのですって、怪しいわね。それに研究の事をいうと真っ蒼になったんですもの。何ていったって、清水のした事に違いないじゃありませんか。だけどどうしても白状しないのよ。
『甚《はなは》だ差し出がましいようですが』下村さんがだしぬけに検事さんにいったの、『本件には一、二矛盾した所があるように思
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