とは思つてゐなかつたし、案外癒るのだらうとさへ思つてゐた私は、『尿器をとつてくれ』といふ弟の声が、余りにも弱々しい時には腹さへ立てた。
医者が来ると、母を出して、私は弟の部屋から引込むのであつたが、或る日私は、自分の耳の下の二分ばかり小高くなつた※[#「月+俘のつくり」、第4水準2−85−37]腫《はれもの》を診察して貰はうと思つたので、弟の寝てゐる部屋に出て行つた。
弟は、私が現れると、私を見て、それから医者の顔を見た。私の下手な挨拶、それでも父のゐない家では、私が戸主なのだから、それに偶《たま》にしか帰つて来ない田舎のことだし、私自身は不評判な息子なのだからと思ふと、せいぜい世俗的な丁寧さをもつてくる私の挨拶を見て、弟はあてが外《はづ》れたといふ顔をしてゐたし、私自身も一寸恥しくなつた。
医者は弟から二尺位離れた位置に、聴診器をあてるでもなく、何をするでもなく、坐つて弟を時々視守つてゐた。私はあとで知つたことだが、医者はもう到底駄目だと前々から思つてゐたので、毎日やつて来ては、三十分なり一時間なり、さうして弟の相手になつてやつてゐるのだつた。
ヂツと医者が弟を視ると、弟は直ぐにその次には、私の顔を見るのであつた。その眼は澄みきつて、レンズのやうで、むしろ生き物のものといふよりは器物《きぶつ》のやうであつた。縁側に吊した金魚鉢か何かのやうに、毀《こは》れ易く、庭の緑を映してゐるやうなものであつた。これが自分の弟であらうかと、時偶そんな気持になる程、その眼は弱々しく、自分の眼との間に、不思議な距離が感じられるのであつた。
いたいたしいなと思ふと、その次にはもうはやく癒ればいいのにと、思ふのは利己の心であつた。
『もつと気持を大きくもつて、少々努めてでも大きい声を出すやうな気持になれば、案外さつさと癒るのだらうとわたくしは思ひますが』と、私は強ひて笑顔を作りながら、弟の顔を伺ひ/\医者に向つて云つた。
『だつてそんなに云つたつてと弟は、医者の顔をチラと見て、私に云つた。『そんな気持になれないのだから仕方がない……』と云つた弟の眼には涙が滲《にじ》んでゐた。悪かつたと私が思つてゐると、
『いいえいいえ、昂奮なすつちや不可《いけ》ません。昂奮なすつちや不可ません』と、私に背を向けたまゝ、医者は弟を宥《なだ》めすかしてゐるのであつた。
私と弟との間に暫らく、緊張
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